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第6話

「フェリックス様。紅茶をお持ちしました」  銀の盆を片手に持ったシャノンは、フェリックスの自室に入った。  扉ほどの大きさの窓からは、清らかな朝日が差し込んでいる。夜の妖しい雰囲気とは打って変わり、爽やかな空気が流れている。 「あぁ、ありがとう」  ティーテーブルに着いているフェリックスが、小説を閉じた。  シャノンは紅茶を机の上にそっと置く。(ツル)の意匠が込められたカップの中で、赤い茶が揺らめいた。  フェリックスはティーカップを手に取り、ひと口飲んだ。 「君が淹れた茶がいちばん美味い」  「ありがとうございます」と頭を下げるシャノン。しかし、表情には陰が差していた。 「どうかしたか?」  顔を覗き込まれる。フェリックスの余裕たっぷりな表情に、肺が締め付けられるような苦しさを覚えた。 「フェリックス様——」  名を呼んだシャノンは、口を閉ざしかけた。しかし言葉を発した以上、もう引き返せない。シャノンは重い口を開き、続きを絞り出した。 「リスティナさんが……諸事情で、この屋敷から去ることになったと、オーガスト様から聞きました」  オーガストとは、この屋敷の執事である。フェリックスからは「じいや」と呼ばれる存在だ。 「その……諸事情、というのは……?」 「君が気にすることじゃない」  淡々とした声で質問を一蹴される。シャノンの面持ちは、さらに陰を帯びた。 「……まぁ、気になるのも仕方ないか。君が好いた子のことだからな」  まるでシャノンがリスティナを恋愛対象として見ていたかのような言い方だった。  違う。ただ友人になれたらと思っていただけだ。……過去の罪からそう断言できず、シャノンは主人の言葉を待った。 「リスティナの実家はアンブルーズ領にあってね。母が倒れたという知らせが来たんだよ。それで彼女は田舎に帰ったんだ」 「そう……なのですか」  胸に滞る闇は晴れなかった。しかしこれ以上追及できなかった。    ***  その日の夜。  自室に備え付けられた小さな風呂場で、シャノンは湯を浴びていた。  水の滴る音だけが浴室に反射する中、憂いの目を下半身に向ける。性器を覆う銀の塊は、フェリックスに仕える従僕の証。  シャノンが生まれた家の者は皆、従者として貴族に仕えてきた。  父や祖父のように、自分も立派な執事にならなければ。そのためならば、どのような苦難も乗り越えよう。  ……そう決意していたはずなのに、この体たらくは何だ。  三日前、シャノンは主人の手に一物を擦りつけ、精を放った。  あの出来事は、墓場まで持っていかなくてはならない。心の奥底へ封じ込めなければ……それなのに、どうして。  シャノンは風呂場にしゃがみ込む。体を抱くように両腕を回し、白い歯を強く噛みしめる。  思い出したからだ。フェリックスの手の感触を……今まさに、触れられているかのように。 「……はぁ」  悩ましげな吐息が、湿度の高い空気と混ざり合った。  隅から隅まで体を清めたシャノンは、寝巻きを羽織り、ベッドへうつ伏せに倒れ込んだ。 (……リスティナさんがいなくなったのは、私のせいだ)  罪悪感に任せてシーツを握り締めた。  フェリックスからは「リスティナの母が危篤のため帰った」と聞かされた。しかしその三日前に、シャノンはリスティナに欲情したと白状した。  これらの出来事に、関係性がないとはとても思えない。  リスティナがこの屋敷から追い出された理由はひとつしかない。従僕であるシャノンが、これ以上劣情を抱かないようにするため。  つまり、自分のせい。自分がリスティナを好きにならなければ、こうはならなかった。  あぁ、悔しい。  リスティナがメイドになった理由は分からない。しかし、このような形で屋敷を追い出されるなんて、あんまりだ。  理不尽に追い出されたリスティナの抱いた激情は、自分の想像をはるかに超えているはず。しかし彼女を追いかけて慰める資格さえ……自分には、無い。  悔しい、悔しい。  リスティナのことも……そして、今この瞬間もベッドに貞操具を押し付けている自分の浅ましさも。  また発散させなければならない。  もう二度と、誰にも性欲を向けないように。 『従僕のなかには、君のように禁欲に耐えかねてしまう者もいる。そのような彼らが肉欲を晴らすために、ペニスを用いない自慰をするんだ。その方法は——』  聞いた時、性教育を受けた子どものような気分になってしまった。これまで出会った従僕たちは、そのようなことを夜な夜なしていたのか。とショックを受けた。  しかし、やるしかない。  シャノンは身を起こし、ベッド脇にあるキャビネットの引き出しから缶を取り出した。  平らな缶に入っているのは脂だ。皮膚を守るために使う軟膏のようなもので、フェリックスから頂いたものだ。  横向けになり、寝巻きをまくり上げる。脂を指に取り、引きしまった尻の頬を割った。 「……ッ」  上から眺めているように自分の姿を想像してしまい、シャノンは恥に悶える。しかしもう、辞めるわけにはいかない。  窄まりをほぐすため、周辺をマッサージする。クルクルと円を描くように、ゆっくり、ゆっくりと。 「……あ」  「肉欲を発散するために、声は我慢しない方が良い」とフェリックスから言われていた。しかし今の声は何だろう。まるで猫の鳴き声だ。 (……怖い)  少しずつ筋肉が柔らかくなるのを感じながら、この先へ進むのを恐れた。  フェリックスから教わったのは、体内から前立腺に直接触れる方法だった。それには肛門へ指を挿入しなければならないのだが……そのようなこと、医者にもさせたことがない。 (だけど、やらなければ)  はぁ、はぁ。と呼吸を繰り返しながら、シャノンは意志を固く持った。 (もう二度と、誰にも欲情しないように……)  息をゆっくりと吐きながら、シャノンは不浄の道へと身を堕とした。 「ゔぅ……ッ!」  シャノンは目を潤ませた。痛くて泣いているのではない。男として、人として。大切な何かを失った気がしたからだ。 「はぁ……ん、っ……」  相変わらず、発情期を迎えた猫のように啼きながら、肉筒をまさぐる。  その瞬間。 「ぅあぁ……ッ!」  ある一点に触れた。その時、シャノンの体に電気が通った。  目を見開き、唇をわなわなと震わせる。「あ……あ……」と声を漏らし、衝撃を逃す。  ここだ。ここが、前立腺に違いない。 「はぁ……はぁ……」  少しだけ膨らんだ場所を、指の腹で撫でるように責める。 『いいか? シャノン』 「ふぅ……ふぅ……っ」 『通常、前立腺で気をやるには、長い時間がかかる』 「は、はぁ、ん、んっ」 『少なくとも一日目はイけないだろうな』 「あぁっ、あ、あぅ、ん、んっ……!」 『だから気長にやるんだ。そうしたらいつか、必ず——』 「イ……イ、く……ッ!」  溜め込んだ快楽が溶けて、全身へ広がってゆく。  水を含んだスポンジを絞るように、悦びがジュワッと溢れ出す。  ドクン。ドクン……と全身に血がめぐり、強張る。しかしペニスは柔らかいままで、女々しい汁を滴らせた。  苦悩が、桃色のクレヨンで塗りつぶされてゆく。人間的な思考は、野性的な快楽の前では無力だった。  一日目で成功させてしまったのは、長く続いた禁欲によるものだったのか。何でも卒なくこなしてしまう彼の器用さによるものだったのか。  シャノン自身にも、分からない。

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