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第35話 時の神の試し
扉を開けた先に、部屋が広がっていた。部屋の一番奥に、鏡が祀られている。その前に白瞑が立っていた。
「白瞑!」
晴は白瞑に駆け寄った。
「本当に最奥で会えたね。良かった。白瞑は……」
白瞑の顔を見上げた晴は、言葉を失った。その目が、何も映していないように虚ろだったからだ。
「白瞑、どうしたの? 途中で何かあったの?」
白瞑の手を握る。晴の手が、ビクリと震えた。握った白瞑の手から熱を感じない。
「どう、して……どうなっているの」
晴は、冷たい白瞑の手を、そっと握った。
「白瞑の時間を止めた。白瞑は今、動けない」
薄く開いた白瞑の唇が、そう語った。虚ろな瞳が、晴を見下ろす。
「時を止めたって、どうして。白瞑は喋っているのに」
「今、話しているのは、白瞑じゃない」
白瞑の後ろに祀られた鏡が、きらりと光った。
(時の神様は実態を持たない。だから御饌も食べないって、白瞑が話していた)
晴は、鏡と白瞑を見比べた。
「白瞑の中にいるのは、時の神様……?」
白い唇が薄く弧を描いた。
「話をする時は、こうして誰かの体を借りる。伴侶の試しをする時は、伴侶になる者の体を借りている」
白瞑の姿をした時の神が、晴に向き合った。
「晴に聞かないといけない。白瞑の伴侶になるのか、御厨守に戻るのか」
「……え?」
時の神の言葉が、うまく理解できなかった。
「白瞑の伴侶になるために、料理を捨てろといったら、捨てられる?」
白瞑の色の無い顔が、淡々と問う。話し方も表情もいつもの白瞑ではないのに。まるで白瞑に選択を迫られているみたいだ。
「それは……そんなの……」
どっちも晴にとって、同じくらい大切だ。どちらかなんて、選べない。
「回廊で、晴の記憶を見た。晴の中は白瞑でいっぱい。答えはもう、出ているんじゃないの?」
「あれは、僕の記憶だったの? 僕の記憶を時の神様が観ていたの?」
白瞑の顔をした時の神が、頷いた。
「晴にとって大切な記憶を引き出した。全部が、白瞑だった」
確かに、その通りだ。白瞑がいない場面なんか、なかった。
(だけど僕にとって、料理は何より大切で。白瞑と比べるなんて、考えたこともなかった)
何かを言わなければいけないのに。言葉が出てこない。時の神に、返事ができない。
白瞑の白い手が、晴に向かって伸びた。
「どちらか選べたら、白瞑の時間を返してあげる。選べないなら、返さない。夕暮の神は自然に溶けて、薄明を守る」
ゾワリ、と寒気がした。
時の神の言葉をはっきり理解できないのに、わかった。
(ここで応えないと、白瞑が死んじゃうんだ)
自然に溶けるとはきっと、神の死だ。直感的に、そう思った。
(僕が選ばなきゃ。白瞑を選ばなきゃ)
口を開いて、言葉を発しようとする。喉が締まって、声が出ない。
(料理を捨てる。もう何も作れなくなる。もう何も……)
今まで作ってきた料理や師匠の顔が浮かぶ。食べて喜んでくれた神々の顔が浮かぶ。色んな思いが込み上げる。
(嫌だよ、料理が作れなくなるなんて、嫌だ)
同じくらい、白瞑も失いたくない。
(言わなきゃ。白瞑って、言わなきゃ)
晴の胸の中に、覚悟という言葉が浮かんだ。同時に、以前に白瞑に言われた言葉が過った。
『私の一番は晴だけど、晴の一番は私じゃない』
白瞑が、どうして晴を伴侶にするのを先延ばしにしていたのか、やっとわかった。
(覚悟が……総てを捨てて白瞑だけ選ぶ覚悟が、足りていなかったんだ)
潤みそうになる目を、拳を握って耐えた。今の晴に泣く資格なんかない。
虚ろな瞳が、微動だにせず晴を見下ろす。その口が開いた。
「神の伴侶になった御厨守たちがどうなったか、知っている?」
「……え?」
突然、違う話を振られて、晴は時の神を見上げた。
「神の伴侶に選ばれた歴代の御厨守たちも、時の大社に来た。同じ質問を投げた」
「同じ……みんな、何て答えたの?」
時の神が、鏡に向いた。
「答えは教えない。結果だけ、教えてあげる。これまでの御厨守は皆、神の伴侶にはなれた。けど、人のまま。人の寿命で自然に還った」
鏡から、ゆらゆらと光が伸びて、揺れる。
時の神が晴を振り返った。
「晴は、どんな答えを出すのかな」
時の神がゆっくりと晴に近付いた。
「ここに来るまでに、考える時間はあったはず。さぁ、答えて」
時の神が手を伸ばした。
その手は紛れもなく白瞑だ。いつもよりずっと白い。
(早く……答えなきゃ。白瞑を助けなきゃ。料理を、捨てるって……)
色んな思いが胸を交錯する。色々な言葉が頭を飛び交う。
晴の目から一筋、涙が零れた。
「白瞑が大好きだよ。だけど、料理を捨てるなんて、できない。だって、料理がなきゃ白瞑に会えなかった。料理があったから、僕らは繋がれたんだ」
晴が御厨守でなければ、白瞑が神でなければ、出会うことすらあり得なかった。
「料理がなくなったら、僕は僕じゃなくなる。白瞑が愛してくれた僕のままで、僕も白瞑を愛していたいよ」
時の神が白瞑の顔で晴を見下ろす。
「それが、晴の答え?」
「そう、です」
晴は目を擦りながら頷いた。
「そう……わかった」
白瞑の指が伸びて、晴の額を押した。
「え……? あっ!」
晴の額を捉えた指先に白くて小さな光が灯る。
「どちらかと言ったのに。両方選ぼうなんて、強欲な子だ」
「ご、ごめんなさい……お願い、白瞑を返して」
「さぁ、どうしようか。晴が自分の役割を受け入れたら、考えてもいい」
「役割……? 御厨守じゃなくて?」
この神世では、皆がそれぞれに役割を持っていると湫憂が教えてくれた。今の晴の役割は、御厨守だ。
「御厨だけじゃない。これからは、神世の食を守る。保食の神になれ」
「保食の神」
麗良が話していた神様の名前だ。晴には可能性があると、立夏も話していた。
「この神世には食の神が足りない。これまでの御厨守にも、同じ問いかけをして、試した。皆が伴侶になる神を選んだ。それでは駄目なんだ。保食の神となり得る者は、誰より食を愛し、伴侶を愛していなければ」
額を捉える指先の光が、晴の中に吸い込まれた。
「あっ、熱い」
体が熱を発して、頭がくらくらする。
「これは保食の神となる印。あと必要なのは白瞑の神力だけ」
指が離れた途端、フワフワしていた体が重くなった。晴は、その場に座り込んだ。
「これまでの御厨守の中で、晴はもっとも適任だ。待って良かった。そうだろう、白瞑」
白瞑の口端が、わずかに上がった。
「約束通り、最愛の白瞑を返してあげるよ」
揺蕩っていた鏡の光が一際、強くなった。光が徐々に大きくなり、薄明の体を包んだ。
ゆっくりと目を閉じた白瞑の体が、前屈みに崩れた。
「……は、白瞑!」
晴は立ち上がると、白瞑に駆け寄った。倒れてきた体を受け止めた。
『目覚めさせるには、白瞑の神力を吸い上げてやるといい』
鏡から、声が聞こえた。
『神力を吸い上げれば、晴も保食の神になれる』
晴は息を飲んだ。
「神力を、吸い上げる」
言われた言葉を繰り返した。
白瞑の頬に触れる。真っ白だった肌に少しずつ色が戻ってきている。
「戻ってきて、白瞑」
晴は白瞑の唇に指を滑らせた。色を戻し始めた唇に、自分の唇を重ねた。強く吸い上げると、白瞑の神力が晴の体に流れ込んできた。
(あぁ……温かい。夕暮れの匂いがする)
白瞑の温もりと匂いを体中で感じる。白瞑の体が、ビクリと震えた。
「ん……晴」
「白瞑、目が覚めたんだね……きゅぅ」
白瞑の腕が伸びて、晴の体を抱きしめた。いつもより、ずっとずっと力が強くて、息が漏れた。
「やっぱり、晴は大丈夫だった。私が思った以上の晴だった」
「白瞑……?」
白瞑の声が涙ぐんでいる。
「料理を捨てない晴が、私は好きだよ。料理をしている時の晴が、一番好きだ」
晴の胸が甘く締まった。大好きな神様が、大好きなことをしている自分を好きと行ってくれる。それが何より幸せだった。
「僕も、白瞑と一緒に料理するのが好き。一緒に空を見上げるのも、好き。白瞑が、大好き」
抱きしめてくれるのと同じくらいの力で、抱き返した。
「晴……額が光ってる」
白瞑が身を起こして晴の額を見詰めた。
「これ……さっき、時の神様が。保食の神の印だって」
晴は自分の額に触れた。まだじんわりと熱を持っている。
「私の神力が混ざって、落ち着かないんだね」
白瞑の手が晴の前髪を退ける。光に唇を押し当てて、白瞑が額にキスをした。灯っていた光が強さを帯びたまま晴の中に落ちて行った。
「何か、感じる?」
「体が熱くて、ちょっとフワフワする」
最初に印を付けられた時のような浮遊感で、くらくらする。
「時期に収まるよ。これで晴も神様の仲間入りだ」
「僕、本当に神様になったの?」
急に神様と言われても、体が熱い以外の実感がない。
「神力が馴染むと変わってくるはずだよ。神力も使えるようになる」
白瞑が嬉しそうに笑った。
「ねぇ、晴。小指を見て」
白瞑が左手の小指を持ち上げた。赤い糸が結ばれている。その先が晴の小指に繋がっていた。
「これで私たちは、伴侶だよ」
晴は自分の小指と白瞑の小指を見比べた。
「伴侶になれたんだ。白瞑と、伴侶に……」
じわりと、目が潤んだ。
「良かった……良かったよ」
堰を切ったように涙が溢れ出た。白瞑が晴の顔を胸に抱いた。
「頑張ったね、晴」
労ってくれる言葉が嬉しい。それ以上に、白瞑が返ってきてくれて、嬉しい。
「白瞑が死んじゃったら、どうしようかと思った」
晴の答えが間違っていたらと思うと、今でも怖い。
「晴は間違わないよ。私が選んだ晴なんだから」
白瞑の優しい指が、晴の頬を撫でる。上向いた晴の顔に、柔らかなキスが降りてきた。唇が重なって熱が溶け合う。
「白瞑……」
白瞑の顔が幻想的に映って、夢でも見ているみたいだ。
「私たちの屋敷に帰ろうか」
「うん。一緒に帰ろう」
包んでくれる優しい温もりは、もう二度と消えない。同じ熱で、同じ時を生きられる。
白瞑の熱に安心とくすぐったさを感じていた。
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