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無道無乃(二)
腰に房つきの剣を帯びた剣客、羅冴流 は、無乃 の手を突然胸の傍まで引き寄せ、凜々しい口元に美麗な笑みを浮かべた。
「あの男は君の従者か?」
腰を抱きながらも、声を低く落とし、無乃 にそそぐ視線は鋭い。
それにしては随分優しく手を取るものだと、無乃 はのんびりと微笑を返した。
「ああ、あの、羊群 のことかな?」と、とぼけた顔をして、どうだったかなと額を押さえる。
「確か、街で雇った担ぎ夫で従者ではない。てっきり我 さんの使用人だと思ったけれど、どうして君がそれを知らない?」
「確認だよ」
羅冴流 の甘い顔付きに覗き込まれ、無乃 は一瞬ためらった。
羊群 が従者でないと知っておきながら、わざわざ確認を? 何か探られているようだな。
「君の方が彼について詳しそうだ」
にこりと微笑みながらぐるぐると思考をめぐらせる。
おかしな事に巻き込まれてまた悪名が増えるのだけは困るので、無乃 は少し慎重になった。
雪のような肌に目元のほくろ、素顔を知られているために食事中も治療を迫られ、茶碗を片手に藪の中に逃げ込めば、ついには無銭無乃と罵られるはめになった。さらには何を勘違いしたのか、片っ端から潰した蚊が血を吸ったばかりだったために、捕吏 に引きずられる血まみれの無乃 に、とうとう人間まで食ったと言いふらされる羽目になろうとは、そのときは思いもしなかった。
極め付けは、たまたま親を失ったばかりの子どもが通りがかったことだ。親の仇と思い込まれたばっかりに命を狙われたので、これ以上悪名を抱える趣味はない。
さて、この警戒心の強い男をどうやって遠ざけようか?
指先の強張りも息遣いも、身体をぴたりと密着させる羅冴流 に知られている。表情なら誤魔化せるが、身体の反応をこらえるには難しい。
……仕方がないかな。
無乃 は覚悟して、けれどしれっと羅冴流 の手を深くにぎり込んだ。
「他に聞きたいことは、ないのかな?」
絡まる暖かなひとさしゆびに、羅冴流 の目が大きく見開かれた。
さすがの羅冴流 も、まさか尋問相手から手を握り返されたことはなかったようだ。虚を衝かれ、手に重なるしなやかな指に、少しずつ顔が真っ赤になってゆく。それを見た無乃 は、「嫌がらせてしまったかな、もう触らないよ」と咄嗟に両手を後ろに隠した。
「尋問は、おしまいかな」
ほこらかな微笑を浮かべる無乃 。
羅冴流 は手を離してしまった自分に驚きながらも、白々しい無乃 の様子に呆気にとられ、次の瞬間、喉をくっと引っかけて爽やかに笑った。
「急ぐこともない。噂通りの人物か見極めるには、時間は十分にある」
そんなふうに腕を組んで見つめられ、無乃 は「おや?」と背中を汗が伝っていく。
「羊群 のことを、言っているのだよね?」
「なぜ聞き返す?」
風に漂う綿毛の様な男に、羅冴流 は思いもよらず興味が惹かれていた。我氷津 の前に投げ込まれた色白の青年が、まさか晩景門の主座、無道無乃 だとはどうしても思われなかった。その真偽も含めて確かめてやるつもりだったのだが、どうやらうまくかわされてしまったようだ。
「無道無乃 。……どんな秘密が隠されている?」
無乃 は平然としながら、さっと口元に微笑を掠めた。
「私は世間に知られているように悪逆無道で極悪人。心を入れ替えて人様のために身を粉にする、ただの貧乏人だよ」
羊群 に盗まれた干し草を取り戻し、二年前の約束のため翠花百雷 へ向かっている遊客でもある。
無乃 は落ち着きながらも、青菊 の部屋へと向かう足取りには心なしか焦りが滲んでいた。
羅冴流 の見透かすようなあの、鋭い視線のせいだ。
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木枠は吉祥の図柄を描くガラス戸の前。
山椒 の木を象った繊細な倒流香炉 からは、雲に見立てた豊かな白い香煙 がゆったりと流れ落ち、窮屈な舟の一室に美しい情緒を結んでいた。
紅玉の実をつけた珊瑚樹 はその香煙に淡くけぶり、鳥の形をした簪 は尾をピンと立てて黒い髪にとまっている。
青菊 の部屋である。
窓に垂らした透かしの紗から斜陽が差し込み、部屋の中を照らす鮮やかな朱色は少しずつ色褪せていく。湖の縁に暮色 が漂い、浮かぶいくつもの舟が夕闇にのまれて直に夜だった。
部屋の中には青菊 という名の娘と、帳を下ろす鮮杏 という高齢の侍女が見えていた。
「どんな病も治すという、あの有名な無乃 、様……?」
男性的なすっきりした顔立ちを布張りの団扇の下に隠し、青菊 は恐ろしげに身体を抱きしめる。
「患部を見せてくれますか」
くつろいでいた青菊 の足元に膝をついて、無乃 はさっそく袖をまくった。その姿に慌てて身体を端へ寄せ、青菊 は逃れるように垂れ絹の後ろへ隠れてしまう。
「明日でも、構わない? こんな時間に訪ねてくるなんて失礼だわ」
最初は弱々しく、けれど言い終わるころには眉をつり上げ語尾を荒げていた。
無乃 は窓の外の夕闇をみつめて、確かにそれもそうだと瞼を伏せる。婦女の部屋にあまり夜遅くまではいられない。だからこうして診察を迫っているのであって、青菊 は手こずらせているのが自分自身だとは、少しも考えが及ばないらしい。
「一つだけ教えてください。病に悩まされはじめたのは、いつ頃ですか?」
「覚えていないわ、そんなこと。さあ、答えたのだから、早く帰って」
青菊 は終止、喉を狭く絞った様な声で喋っていた。その押し殺した苦しげな声に、無乃 は伏せた瞼をひくりと動かす。
どうやらどうしても身体を見せたくない理由がありそうだ。
「私に触られたくないのなら、かわりに鮮杏 さんにさせましょうか」
青ざめた青菊 に息を吐く。無乃 は切り出して前へ進み出たが、腰の曲がった鮮杏 がそれより早く、さっと、風のように立ち塞がった。
「無乃 様、日が落ちました。変な噂が立つと困ります。また明日、おいでください」
湖の上はすっかり夜であった。黒目の確りとした若々しい鮮杏 を見つめながら、無乃 は穏やかに微笑む。
「ただの医者と患者の関係で、誰も詮索するようなことはしない。帰るときは人目を忍ぶとお約束しますよ」
といって無乃 はもう少し粘ろうとしたのだが、業を煮やした青菊 が羅冴流 を呼びつけたせいで簡単に追い出されてしまった。
――――――――――――――――
口元に笑みを浮かべて無乃 は控えめに瞼を伏せている。
時々目の上にかかる前髪を耳にかけながら、少し気になるように目元に触れた。ほくろをそっと撫でつつ、慣れない暗がりにふらふらと壁を伝って歩いて行く。
「君はお嬢さんの症状について知っているか?」
少し間があってから、羅冴流 が簡単に答えた。
「症状がではじめたのは、丁度一週間前だ」
「腹部になにかあるようだな」
やはり、医者か。言い当てた無乃 に羅冴流 は興味深い目つきをして覗き込んだ。
「よく見えたな」
「身体を隠したからね」
無乃 はおっとりという。
「彼女には婚約者がいるのかな。我氷津 が何人もの医者をかき集めたのは、結婚に不都合が生じたからかもしれない。腫れているのが、まさか身ごもっているわけでないなら、患部は腹だろう」
医者が奇病扱いして匙をなげたのは、おそらくどの医者も彼女の身体を直接見たり触れることができなかったからに違いない。
羅冴流 は「へえ?」と意外そうに眉をあげた。
「当てずっぽうがうまいんだな。その通りで、婚約の直後に症状があらわれたんだ」
無乃 はにこりと微笑んだ。
「あの侍女のおばあさんは昔からお嬢さんの傍にいるのか? 彼女からも話しが聞きたいけれど」
「最近はあまり物覚えがよくないと聞くから、覚えているかどうか」
無乃 ははたと、口の軽い羅冴流 を振り返った。
青菊 の病が婚約直後で日が浅いというのなら、我氷津 が完治を急ぐのも理解できる。それに姪の結婚のためには事を大きくさせたくはないだろうし、病が知れ渡るのも避けたいだろう。
こういう場合、たいてい口の禍を嫌って使用人は何も話したがらない。無乃 を遠ざけた鮮杏 が良い例だ。けれど羅冴流 はやけに協力的ではないか。
「親切だね」
無乃 か羊群 か、正体を暴くまでもしかしたら何も教えてくれないと思っていたのだから、少し意外に思えた。
すると羅冴流 は微笑んだ。
「十人も医者が消え、お嬢さんの病も一週間経つが回復のめどはない。知っている事は全て話せと我氷津 の命令だ」
なるほど、我氷津 は随分とあの姪をかわいがっているらしい。
「ところで」
と無乃 は難しい顔をした。
「私の部屋は、どこかな?」
期待しているわけではない。しかし羊群 がいい部屋を用意すると言ってくれたのだから。
そのまま歩いて行こうとする無乃 に、羅冴流 が咄嗟に袖を絡みとった。
「この部屋だ」
無乃 は「えっ」と踏みとどまり、羅冴流 が機嫌良く指し示す部屋を前にしげしげとその戸を見つめた。まさか本当に羊群 の交渉が功を奏したのだろうか? 物置部屋だと勝手に覚悟を決めつけていたところだったのだから、輝くばかりの美しい戸を前に無乃 は感激していた。
「うん、中々だ。君も早く自分の部屋に戻るといい」
無乃 は朝から言うことを聞かない騾馬を歩かせ続けていたから、くたくただった。とにかく今日は手足を伸ばしてやわらかい寝台でぐっすりと眠れるのだ。
にこやかに別れを告げて開けた戸を、勢いよく閉ざす羅冴流 の手だった。入り口を塞ぐその腕に、無乃 は戸惑った。
「通してくれるか?」
羅冴流 は少し言いにくそうに眉を寄せた。
「……確かに君の部屋でもあるが、使うなら、手枷をつけるようにといわれている」
「……なら、手枷だけつけて君は戻るといい。個室を使わせてくれると我 さんが……」
羅冴流 が困った顔でゆるく頭を振った。無乃 はその様子に薄々と感づきはじめる。
「さては、言葉の綾があるのかな」
羅冴流 は苦く笑う。
「君に与えられたのは、見張りつきの個室だ。目を離した隙に湖に飛び込まれるわけにはいかないと、我氷津 からの命令だ」
まるで今まで何人も湖に飛び込んだ様な口ぶりではないか。
無乃 から慌てて視線を逸らす羅冴流 が、若干赤らんだ顔を半分ほど覆って弱々しく通路を指さした。
「それがいやなら雑居部屋か通路で雑魚寝を」
無乃 はしばらく部屋と通路を行ったり来たり見比べていたが、やがて疲れ切って息を吐いた。
「雑居部屋にするよ。個室は、君が存分に味わうといい」
「無乃 、君は運が良い。屈強な護衛が、君の睡眠を守ることになっている」
どんな危険が私につきまとうって言うんだ?
「護衛を雇った覚えはないよ」
「君が俺を、雇えるわけがない」
「まさか、見張るわけではないだろ?」
「以前、用を足すと言われて逃げられたことがあった。それ以来、我氷津 は少し、過剰になっていて……」
無乃 は息を吐き、雑居部屋に足を向ける。
「君の顔が赤い理由がわかった」
これでは寝言の一句まで書き留められそうだ。
水夫が入り交じって眠る通路を隈なく眺め、寝られそうな隙間をさがして歩き続けたが、鼾 の響く騒然とした雑居部屋を前に無言でくるりと踵を返した。
部屋の前まで戻ったとき、羅冴流 をちらりと振り返る。
「お願いがあるんだけど、湖に身を投げ出したりしないから、手枷だけはやめてくれないかな。それから逃げたりもしないから、お手洗いも自由にさせてくれ。心配なら腰紐を繋いでくれていい」
一つ、二つと指を広げる無乃 に羅冴流 はそれをどこかおかしそうにみていた。
「そう言ってくれるのをまっていた。君を信じるよ」
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