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無道無乃(四)

 もやのかかった川の上を、豪華な二階建ての遊覧船がゆっくりと進んでいく。  ほのかな月明かりに照らされたみずけむりは灰色の(ひだ)をうち、虫の音も(いさ)り火もどこか白っぽい夜。切り立つ岸壁の間を舟の重たげな軋みが響いていた。  夜半すぎ。  巨船に従う護衛船がにわかに騒がしくなった。松明を船縁に集め、黒々とした波の下を慌ただしく照らしている。  浅瀬に乗り上げたかと思われた。そのため若者が飛び込んで船底を確認しているが、座礁しているわけではない。けれど確かに何か硬いものに乗り上げたような激しい揺れを、乗組員全員が感じ取っていた。  薄気味悪さを感じながらも夜闇の景色はますますかすみがかかるようで、次第に瞼が重くおりてくる。水夫たちはその違和感の中、必死に眠気をこらえた。その夢が見せた幻だと最初は思ったのだ。思いがけなく、一面の水面を紅が染め出したのだから。  柳を揺らす微風(びふう)に運ばれて、川岸から子守歌が聞こえてくる。悲痛な女の声である。その歌声の正体がわかる頃には、護衛船も巨船も、船の中の人々は皆、深く眠り込んでいるのであった。    ――――――――――――――――  いくつもの小舟が怪しげな歌声とともに巨船を取り囲む。  屋根にかけた(むしろ)の下から、顔を覆った男たちが這いだし、巨船に縄をかけてのぼり始めた。  その最中、寝静まった二階の一室では、細い木枠のガラス戸が、風もないのに錆び付いた音を立ててふと、ひとりでに開いた。  たっぷりと満ちた香炉の煙りがその瞬間ふわりと溢れ、戸を押した白い指先に絡んでいく。蜜の滴るような甘い香りが、忍び込む男の身体を拭った。  夜の深い影に細身をひそませ、僅かな水音と鈍い月明かりを頼りに、彼は部屋の奥までふらふらと近づいていく。  紗に、一糸まとわぬ人影がぼうっと浮かんでいる。  なだらかな身体は淡い月光を受けて乳白色をおび、分厚い胴回りや太股の引きしまった輪郭が浮かび上がっていた。それを素早く目にした彼は、声をかけるよりも先に、さっと紗をまくりあげた。 「誰――!」  ほとんど同時に、中の人物が掠れた悲鳴を上げ、無意識に下を隠す。 「私、無乃(ウーナイ)だ」  それを見つめながら、侵入者、無乃(ウーナイ)はにこりと微笑んだ。  青ざめた顔で振り向く人物は湯浴みをしていた青菊(チンチュイ)だった。  青白い静脈を走らせる胸元を晒したまま、筒袋を引き寄せようと手を伸ばす。それをすかさず無乃(ウーナイ)は蹴り飛ばし、青菊(チンチュイ)の伸ばした左手を軽く叩いた。 「君の利き手は、どうやら右手らしいね」  右手で股の間を隠す青菊(チンチュイ)無乃(ウーナイ)を睨み付けていた。冷え切った身体を抱きしめながらよろよろと壁際にもたれかかり、そこでようやくハッとした顔で胸元を押さえる。けれど彼女の秘密を見てしまった無乃(ウーナイ)にはもう遅い。  口元に笑みを浮かべて無乃(ウーナイ)ははっきりと言った。 「君が、男だというのは、紛れもない事実だ」  青菊(チンチュイ)の首筋から冷や汗が伝っていく。その先にはあるはずの豊かな膨らみはない。筋肉質な身体と広い肩幅を誤魔化せるはずもなく、観念したように息を吐く。その様子に、「やはり」と無乃(ウーナイ)は瞼を伏せた。  青菊(チンチュイ)は今更前を隠すことも馬鹿らしくなったようだ。挑発的に片頬を持ち上げ、無乃(ウーナイ)の華奢な体つきをじろじろと眺めた。  部屋の中には無乃(ウーナイ)の他に気配はない。最近雇われたあの男がいてはいろいろ面倒だと様子をみていたが、それも余計な心配だったようだ。乗り込んできたのが無乃(ウーナイ)一人だけなら、何を手こずる必要がある。そう値踏みしていたらしい。 「俺様が、鬱陶しい医者たちをどう追い払ってきたと思う?」  細い眉を不機嫌にひそめる青菊(チンチュイ)に、無乃(ウーナイ)はおかしそうに笑った。 「私のことも湖に捨てるのか? 君は人に正体を知られるのが、よほどまずいようだね」 「なあ、聞かせてくれよ。いつから俺が男だと気づいていたんだ?」  衣架けから無造作に白布を引っ手繰りながら、無乃(ウーナイ)が正体を見破った慧眼に興味があった。  わざわざ説明するほどのこともないのだけれど、と無乃(ウーナイ)は柔らかな微笑を返す。 「もちろん、聞かせてあげるとも。大体は病に罹ると気は落ち込むものだし、仮病なら尚更大げさに悪病ぶるものだけど、君は全て逆だ。私が来て迷惑そうにしていたし、悩みがある様子もなかった。それに、君は私に、身体を見せたがらなかった」 「あんたの前じゃ、どんな婦人も身体を見せたがるわけだ?」  青菊(チンチュイ)はしかめっ面をして、婦人の押し寄せたあの触診の大騒ぎを思い出すと、またひどく顔をしかめた。 「ってことは……、」  思案顔で小さく呟き、舐めるように無乃(ウーナイ)の顔をじろじろと見た。 「あんたは最初から、俺が男だと知りつつあちこち触ったわけだ? 腕だけじゃなく、……ここも……変態なんだ? あんた」  すぅっ、と青菊(チンチュイ)の指先が下腹を辿る。  その冷ややかな笑みと予期しない罵倒に無乃(ウーナイ)は悩ましげに眉を寄せた。 「……変態?」 「俺の身体を満喫して、随分楽しんでいたみたいだけど?」 「まさか。本当に病なら見過ごすわけにはいかない。けれど食べ過ぎてパンパンになったお腹に興味はないよ」 「それじゃあ、あんたの興味のある病についてきかせてよ」  青菊(チンチュイ)は前を開けさせたまま無乃(ウーナイ)の傍までやってくる。後退る無乃(ウーナイ)を壁まで追い詰めて、鈍い色の瞳をにこりと細めた。 「天下一の医者、なんだろ? 俺の病は奇病か?」  自分の方が詳しいだろうに。無乃(ウーナイ)は呆れて息を吐く。 「鮮杏(シェンシン)さんの物忘れを吹聴したのは君だろう。彼女は確かに年だが、立ち振る舞いは確りしていて、記憶に自信がない人にはみえなかった。それにこの船では日に日に食べ物が減っていくらしい。消化しきれないほどの食べ物を詰め込んで、君は病を装っていたのかな」  まだ大きく膨れている腹部に視線を落とす。  楽しげに青菊(チンチュイ)が先を促した。 「どうしてそんな事をしていたと思う?」 「婚約したことを知らなかったんだろう。こうでもしないと、男の元に嫁がされるうえに、女でないことがばれてしまうからね」 「ご明察。俺を完治させるって? 病でもないのに、どうやって?」 「仮病はそこが難しいんだ。だから、本物の青菊(チンチュイ)をこの舟に連れ戻そうと思うんだけど、彼女がどこにいるか、教えてくれ」  男は濡れた身体に衣服を身につけていく。素足に深靴を履き、慣れた手つきで素早く革帯をしめる。髪を高く結い上げると筒袋を手にして満足そうに頷いた。 「あんたは我氷津(ウオピンチン)に脅されている身だ。もし青菊(チンチュイ)がこの船にいないと感づいたら、あんたを責めるかもな」  無乃(ウーナイ)はおっとりと微笑んだ。 「それは、どうだろうね」  確かに我氷津(ウオピンチン)青菊(チンチュイ)の為に多くの医者を呼んだようだが、どうやら姪の病については無関心だ。その証拠に、船主は一度も無乃(ウーナイ)を呼び出さなかった。普通、親族なら症状の善し悪しを聞きたがるはずなのに。  納得できないのことはもう一つあった。わざわざ男の彼が厚かましくも女装までしてこの船に乗り込んだことだ。むしろ無乃(ウーナイ)にはそちらの方が重要に思えた。 「君が青菊(チンチュイ)のふりをしてこの船に乗り込んだのは、どうしてかな」  男は無乃(ウーナイ)に背を向け窓枠に手をつく。川の様子を眺め下ろしていた。生来、饒舌な性格であるらしい。顎を揉みながら答え倦ねていたが、ついに軽口を交えて白状した。 「一週間も女の格好をさせるなんて、あり得ないだろ。退屈で仕方がない。おまけにあんたみたいな変な医者まで来るし……それでも俺が女のふりをしてこの舟に居続けたのは、首魁(しゅかい)の遺言を実行するためだ」 「首魁……?」 「翠致幇(すいちほう)だ」  無乃(ウーナイ)の胸にチクリと刺すような痛みが走る。 「翠致幇だと……?」  翠致幇の首魁。その人物は王家(チー)家の公主を下賜された、軍港の将軍だ。一時は水路要地の全交通網を支配する荷華幇(かかほう)と匹敵するほどの勢力図を広げたが、首魁は(チー)家の凋落とともに十年前に征伐され、翠致幇も解散。その名は最近ようやくちらりと耳にするほどであった。  その残党がまだ活躍していたことに無乃(ウーナイ)は驚いていた。  冷たい月明かりを背にした男に、無乃(ウーナイ)はそっと息を吐く。 「何をはじめるつもりだ? 首魁の遺言状に従うなんて。彼は、とっくに死んだんだよ」 「ある人物がこの舟に乗り込むという情報があったんだよ。待っていたが、どうやら偽情報を掴まされたらしい。乗り込んできたのは、貧乏な痩せた医者だけだった」  無乃(ウーナイ)は自分の姿を見おろして、確かに痩せてはいると苦く笑う。 「この舟が綾風渚(りょうふうしょ)に向かって困るのは君の方だ。私が捕吏を呼ぶからね。本物の青菊(チンチュイ)の居場所を教えてくれれば、君のことは一旦見逃してあげてもいい」 「その、綾風渚に俺たちも向かうことになった。まさか、うら若い乙女を見殺しにするわけがないよな? 俺より先に彼女を見つけないと、どうなるか分からないぜ、無乃(ウーナイ)先生」  男はにやりと笑い、後ろ手に窓を開け放つ。 「窓……? まさか、外は川だ!」  すでに闇深い夜更けで、危険を冒してまで川に飛び込むとは想定もしていなかった。慌てて引き留めようとしたとき、 「無乃(ウーナイ)!」  蹴り破る勢いで羅冴流(ルオフーリウ)羊群(ヤンチュン)が戸を開けて押し入ってきた。無乃(ウーナイ)は焦った彼らの顔をチラリとも見ずに川の中へ落ちていく男を窓際まで追いかけていく。真っ暗にうごめく波の中に、すでに男の姿は消えていた。  急いで甲板へ出ようとする無乃(ウーナイ)に、羊群(ヤンチュン)が慌ただしく干し草を押しつける。 「羊群(ヤンチュン)、干し草は今は……」  無乃(ウーナイ)は干し草を抱えながらゆっくりと羊群(ヤンチュン)の顔を見つめた。視線をあちこちに忙しなく彷徨わせた末、たまらず彼は叫ぶ。 「盗賊団です! 旦那様にはよくしていただきましたから、それだけは伝えようと思っていたのに、あなたを探し回ってついに今日になってしまいましたよ!」  半ば泣きそうな目で羊群(ヤンチュン)が訴えた。  無乃(ウーナイ)は「ああ、」と納得して手を叩く。 「夜な夜な歩き回っていたのは、私を探していたからか」  のんびりと無乃(ウーナイ)はいった。その言葉がまだ終わらないうちに、羊群(ヤンチュン)は被さるように口を開く。 「そうなんです! しかも私は本当は盗賊団で、この舟に忍び込んで下準備をしていたときに我氷津(ウオピンチン)に下男と間違われ、あなたを連れてくるように言われてしまって!」  両腕に泣きすがる羊群(ヤンチュン)に息を吐きつつ無乃(ウーナイ)は鼻水を垂らす顔だけは遠ざけた。 「悪いが、今は盗賊団に構っている暇はないよ、青菊(チンチュイ)を追わないと……」  しかし夜襲にしては随分静かではないか。羊群(ヤンチュン)の慌てっぷりが滑稽にみえるほど。それに無乃(ウーナイ)羊群(ヤンチュン)に恩を返されるほどのことは何もしていない。それなのに盗賊団の仲間である羊群(ヤンチュン)の噂がたつほど無乃(ウーナイ)を探し回っていたということは、盗賊団の目的は盗みではないのだ。  はたして羊群(ヤンチュン)は、無乃(ウーナイ)の胸の内を掠めた疑問に答えるように言い放った。 「盗賊団の狙いは、旦那様ですよ!」  羊群(ヤンチュン)の脇を通って廊下へ出ようとした無乃(ウーナイ)は、思わずどきりとして立ち止まる。 「私か?」 「恨みを買ったのか?」  それまで静かにやり取りを見ていた羅冴流(ルオフーリウ)が喉をならして笑った。それを一瞥し、無乃(ウーナイ)は困ったように額を覆う。  心当たりがないようで、ある……  というのも、折れた骨を反対側にもう一度折ればなおるよと教え、胸焼けがするという老人にはそれは火傷だと適当に答えて、氷嚢を三十日間そこに置くように指示をした。あれは、身包みを剥いだ盗賊たちを相手にしていたときだ。しかもそのとき丁度、意識もままならないほどの寒気と目眩に襲われていた不調のときで、次から次へと人に掴まってついに気が立った挙げ句の盗賊だったのだから、仕方がない。確か、小山のお猿と呼ばれていたような……山猿のお頭だったかな……? 「……随分、心当たりがあるんだな」  深く考え込む無乃(ウーナイ)羅冴流(ルオフーリウ)が呆れた声で低く笑った。 「無罪だと、主張したかったんだが……」  無乃(ウーナイ)は眉間をもみほぐすように指を押し当てる。疲れ切った息を重く吐き出した。  きっと治療のお礼に来たに違いない。 「とりあえず、私は逃げないとまずそうだ」 「川に飛び込め。運がよければ綾風渚に流れ着く」  いいながら、羅冴流(ルオフーリウ)は困惑する無乃(ウーナイ)をすでに抱き上げていた。 「まさか、投げ飛ばす気じゃないだろうね?」  無乃(ウーナイ)の頬を冷たい夜風が打っている。足元の黒々とした川を見ると、思わず肝が冷えた。羅冴流(ルオフーリウ)の肩に回す指先が僅かに強ばった。 「怖ければ目を、閉じていればいい!」  真っ青な顔でしがみつく無乃(ウーナイ)に、剣を背にして羅冴流(ルオフーリウ)はさっと飛びおりた。騾馬を抱えた羊群(ヤンチュン)までもがその後に続き、夜の川に二つの波飛沫があがった。 「どうして君たちまで――!」  無乃(ウーナイ)の叫び声は呆気なく波の中に飲み込まれ、獣のような巨船の軋みや、揺れる提灯の明かりは遠ざかり、ゆらゆらと川に押し流された無乃(ウーナイ)らは翌朝、近くの川岸に引っかかっていた。

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