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無道無乃(五・終)
夜の川岸で羊群 は僅かな金銭が入った巾着袋を、無乃 の懐からこっそり抜き取ると、騾馬を抱えてどこか遠くへ走り去ったらしい。
相当焦っていたようだ。
顔に跳ねた水しぶきに目が覚めた無乃 は周囲に散らばった干し草と、財産を抜き取られた寂しい胸元をまさぐってしばらく呆然とした。
早朝、水のほとりは冷たい霧に包まれていた。水滴を帯びる草藪の影からは金を奏でるような虫の音が悲しげだった。岸に跳ね返る波の音と、河の底をかき混ぜる雄大な轟音に耳を傾けていた無乃 はようやく息をついた。
羊群 を少なからず信用していたのだと気づき、再び深く落胆した。せめて脅し取ってくれればよかったものを……
騾馬はまた買えばいい。
けれどやはり何度経験しても、信用していた人間に裏切られることが、これほど自分を無気力にさせるとは思いもしない。
それでも無乃 は濡れた裾を絞りつつゆっくりと起き上がった。羊群 が盗賊団の襲撃を教えてくれた情報料だと思えば、安すぎる方だろうと目を瞑る。
「ところで、お前さんは知っているか?」
釣り人の舟によっこいしょと腰をかけて、無乃 も隣で糸を垂らす。すると老人がケケッ、と奇妙な笑い声を漏らして舟を出した。川の中程へ向かう途中、思い出したように老人が切り出したのだ。
「知っているって、なにをです?」
無乃 はにこやかに微笑んだ。
松の朽葉を咥えた老人が思いだし笑いをして肩を揺らす。真っ黒に日に焼けた顔に、抑えきれないほどの好奇心が浮かんでいた。
「悪逆無道の無乃 がな、ある娘の病を治そうとしたら、その娘が男になったらしい。見た者がいると……」
ほぅ、とため息のような感嘆をもらし、無乃 は不思議なこともあるものだね、と相づちを打つ。
「それなら男を治療したら、その人は女になるのだろうか?」
ケケ、と老人が再び怪しい忍び笑いを漏らした。
「おそらく、そうじゃないかね。わしにはわからないが、あの晩景門の悪主座のことだからね」
「どうして治療すると、女が男になるのだろうねえ?」
「わしのことも女にしてくれるなら、是非とも治療してもらいたいものだ」
無乃 はおっとりと笑みを浮かべた。
「邪なことを考えると、不思議と悪いことが起こるものですよ」
「心当たりがあるような台詞だな。……おや?」
舟を漕ぎ進めていた老人が、官衙 の旗をさした舟に気づく。「ありゃあ、一つは漁船だな……」ごそごそと口の中で呟き、様子を見ようともう一漕ぎし、恐る恐る立ち上がった。
無人の舟が一艘、ひっくり返って浮いていた。その周囲を巡視船と漁船がとりかこみ、役人がなにか必死に水の中に向かって叫んでいる。
「……ん?」
目をすがめて身をのりだした老人が、
「わっ!」
と、水中から引っ張り出されたそれをみて腰を抜かした。
慌てて身体を支える無乃 も思わず息を呑む。
役人が反射的に嘔吐く傍で、漁師の男が困惑顔を浮かべていた。水草に絡め取られたそれは、手足と顔のない大きく身体の膨らんだ水死体であった。
昨晩、我氷津 の護衛船が座礁したと勘違いしたのは、この水死体にぶつかったせいだったのだ。
無乃 は見覚えがあった。水死体、というよりも、身に纏っている白い衣が――
青菊 になりすましていたあの男が、川へ身を投げる間際に着ていたものなのだ。
もしかしてあの男の死体――
死なれては、翠致幇 の企みも聞き出せない。無乃 は慌てて身を乗り出した。
「その死体、男女どちらか分かりますか」
切羽詰まったその声に、死体を舟に引き上げるよう指示していた壮年の役人が、ちらりと小さな釣り船を振り返る。やる気のなさそうな手つきで追い払おうとするので、無乃 は咄嗟に口を開いた。
「探している人かもしれない」
「探してる?」
未だに青白い顔で嘔吐いている若い役人を睨み付け、やはりつまらなそうな顔で渋渋といったように答えた。
「あいにく下は焼けただれているし、身体もほとんど魚にくわれてる。これほど膨れてるんじゃ、男女の区別はつかない」
「その衣服、まだ新しそうに見えるが……」
そういって、水死体の衣服を指さす。指摘する無乃 は少しずつ冷静になっていた。あの男の死体ではない。彼が身を投げたのは昨日である。一晩でここまで激しく損壊するはずがないのだ。おそらく仲間の舟が下に待機していたのだろう。衣服を着せて無乃 の目から逃れようとしたのだろうか。
「人違いだったみたいだ」
ところが役人はその言葉が聞こえていないかのように大声で呼びかけた。
「知り合いなら、こいつを引き取ってくれ!」
無乃 は慌てて頭を振る。
「待ってくれ、人違いだ……!」
「違う? なら、こいつの親族を見つけてこい! 遺体は保管しておいてやるから!」
顔もなく、手足や指の特徴も一切ない遺体を凝視して、無乃 は苦々しく瞼を伏せた。
「どうやって、探せと……!」
思わず叫び返す。
青菊 を見つけて連れ戻さなければならないというのに、そんな面倒なことには関われない。
舟を戻そうとする無乃 に、役人は意地の汚い笑みを浮かべた。
「逃れた盗賊団の多くが、まだこの辺りに潜伏しているっていうじゃないか」
無乃 は男の言わんとしていることに気づく。
「……私を、その仲間だというつもりか?」
「言うことに従わないのなら、そういうことになる」
男女など気にしなければ良かったと無乃 は大きく息をついた。仕方がない、青菊 を探すついでだ。見つからなかったら、彼には悪いけれど姿をくらませてもらおう。
「私は無乃 。あなたは?」
「端一 だ」
誇らしげに答える男に、無乃 はまるで聞きなじみがあるというように美しい笑みを浮かべた。しなやかな指を品良く組み、まるで花の綻ぶようなその笑みに端一 はつい目を奪われる。のんびりとした無乃 の言葉が、上の空だった端一 の意識をやや遅れて引き戻した。
「よかった。あなたの名前には権威がありそうだ。これで宿とご飯にはありつける」
「……なに? もしかして……しまった! 俺の金でただ飯を食う気だな! おい、小僧、さっさと櫓を渡せばか者!」
ぐったりと船縁に倒れ込んでいる若者をたたき起こしている間に、無乃 を乗せた舟は遙か遠くへすっ飛んでいくように逃げてしまった。
見るからに鈍そうな男と思っていたから、端一 は油断していた。ただし救いなのは、あの華奢な身体では飯もそれほど食べられないだろうというところである。地味な装いを見ても遊び人には見えない。最悪、溝に財布を落としたと思えば良い。
そんな負け惜しみをつらつらと口の中で呟く端一 は後日、容赦のない多額の請求書を目にして大量の冷や汗を拭うことになった。
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