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古月をくだく(一)
秋声のひそめきは河水緑影を翳 らせ、陽ざしは未だに岩を融かすほどの暑さでありながら、風には清らかなものがまじりはじめていた。
無乃 は秋の訪れを感じる潺 の辺 で、事の顛末を全く憂鬱に浸っているのであった。
「あれが、悪主座だって――? ひ弱そうだぜ!」
と、まるで鉄を引っ掻くような声で聞こえよがしの悪口を放ったのは、凶党の飛銀党、嘲笑を投げる軽薄そうな男だった。
そのとき無乃も万紅雪 も口いっぱいにご飯を頬張っていて、貧乏な食べ盛りの男が三人も揃い、たった一品のおかずをめぐって額を付き合わせているのだから、不穏な気配さえ漂っていた。
普段ならああいうちょっと腕に覚えのありそうな男たちが挑んできそうだと思えば、気配を消すか、羅冴流 を連れて他へ移動するのだが、このときばかり直情的な万紅雪が一緒だったことをうっかりしていたのだ。
無乃は動じない羅冴流の隣でご飯を掻き込みながら、万紅雪の短気さには困ったものだと息をつく。
「万紅雪、剣はいけないよ、人様に迷惑がかかるからね」
無視を決め込もうと努力はしたらしい。しかし耳障りな声が万紅雪の鋭敏な神経を派手に逆なでした。
「羞花閉月 の美貌とはまさに噂通りか――、悪巧みに長けた一門の主座が、人の命は平気で奪うくせに、用心棒を雇って自分の命は惜しいのか?」
といかにもな侮辱に、ゆらっと立ち上がったのがつい直前のことだった。
その後ろ姿に「剣はいけないよ……」とのんびり呼びかける無乃だ。
万紅雪は素直に従って剣を投げ捨て、ツカツカと男たちに詰め寄っていく。
研ぎ澄まされた容貌をツンとさせ、丸腰のやや思い上がりの強そうにも見えるこの無防備な青年を無謀とみたか、袋叩きにしてやろうと血の気を盛んにしたらしい。まるで獲物を物色する狐狼のように万紅雪を取り囲んだ。
「生意気な三下野郎だ」
「大した腕もなく金で買われたか」
「極悪人の尻拭いはうまいらしいな」
そばで聞いていた別の男がそれを受け、春のふちをなぞるような無乃の容貌を目にすると、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「かぶりつきたくなるような臀に違いねえ」
万紅雪は思わず噴きだしかけた。涼しい顔でそれらを黙って聞き流しながらも、視界の端で成り行きを見守っていた無乃はむしろ、この暴言は聞き捨てならなかった。
店内はしんと静まり返っている。
「どこを拭うって?」
口元に気の緩むような笑み浮かべて立ち上がった無乃は、すたすたと集団の中を掻き分けて、「ちょっとすまないね、通してくれるかな」と断りながらもついに万紅雪と、そして対峙する大男の間に立っていた。
頼りない痩せ男。そんな青年が屈強な男たちの間に挟まれに来て、一体何をするつもりだろう。
店中の好奇心を一身に集める無乃は男たちをしげしげと眺め、ひりつくような緊張感が走る中、やがて柔らかな声を優しく響かせた。
「何を勘違いしている、素手でも、万紅雪は剣を持つ君たちより強い。百舌 を落とし千家をも貫く彼が剣を捨ててくれて幸いなのは、小勢の君たちの方だ。手加減してもらえてありがたく思うべきだろうね」
とにこりと微笑んでいったので、自慢の肉体をけなされた若者がひくりと口元を引きつらせた。その瞬間、万紅雪と張り合うようにまんまと剣を投げ捨ててしまった。
小勢だと言い切ったが、飛銀党は総勢二、三十名を超える侠客の集まりだ。それを前にして小勢はむしろ、三人、ないし二人程度の無乃の側である。しかも一人は剣さえ持たず、もう一人は我関せずと食事をすすめている。劣勢は明らかで、たった三人相手では男たちも暴れ足りない。興奮をどう発散してやろうかと考える彼らの目に、無乃はおっとりと微笑んで続けた。
「剣を捨てるのかい? 良い心構えだ。それなら……」
すっと外を指さし、
「ここを出て少し行った先に川がある。湖水まで泳いで先に戻ってきた方が相手を一発殴るというのは、どうかな」
この提案を聞いた飛銀党の大体は「おう! 乗った!」と威勢がよかった。体力はありあまり、さらには武術では敵いそうにない相手に、泳ぎならば勝ち目がありそうだと目論見もあったらしい。
しかし熱気を帯びる若者たちの中で、ただ一人だけ浮かない顔をする青年がいた。明らかに憂鬱そうに肩を落とし、騒ぐ兄弟たちを悲しそうに見つめている。
「うまく騙されやがって……」
と凜々しい眉をひそめて恨めしげに無乃を睨み付けて言うのであった。
「やってやろうじゃねえの!」
とにかく、こめかみの青筋をひくつかせ、競うように店を飛び出して勇んで駆けていったので、店はまったく平和が戻ったのだった。
「君は行かないのか?」
食事の再開をしようとしたところに緊張を走らせる羅冴流の一言が刺さった。
「なぜ私が行くんだ?」
発案者は無乃だ。自ら飛銀党と万紅雪の諍いに関わりにいったのだから、無乃も一緒に泳ぐべきだと言いたいらしい。ぎくりと跳ねかけた体を押さえて、「ふふ」と意味ありげに微笑する。
「私が泳げると思うか?」
取り澄ます無乃に羅冴流がさらに追い詰めた。
「協力してあげる」
「羅冴流、私は人を殴るのも殴られるのも好きではない。あの競争に混じるつもりもないよ」
「君の粗野なところは、いつも柔らかな笑みの下に隠されてしまうらしい」
羅冴流の見透かすような視線が真っ直ぐ向けられていた。無乃は嫌な汗が噴き出す。
――もしかして、疑っているのか?
すでに自分は悪主座だと認めて名乗りもしたのに、まるで悪主座らしいところを見せろと言わんばかりではないか。
無乃は内心困惑しながらコホンと軽い咳をした。
「それなら遠慮なく私も、混ざってこよう。人を痛め付けるのは久しぶりだから、腕がなまっていないか心配だ。それに、溺れてしまうかも……」
そこが一番肝心なところである。
泳ぐというのは一体どういう風に?
深刻な顔をしてふらりと店を出て行く無乃の後ろで、羅冴流とは別に、もう一人険悪な表情を作っている人物がいたのだが、無乃の後をこっそりついて行こうとした矢先、羅冴流が先をこして立ちあがり、その鼻先で思い切り扉を閉めたものだから、危うく顔面を打ってしまうところだった。
あれが晩景門の主座ならば、なんとしてでも接触しなければ……
と、強い意志を瞳に秘めながら、水辺へと向かう無乃を視線で追いかけていたその姿は、白日の下に忽然と消えてしまった。
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