49 / 53

古月をくだく(二)

 肌脱ぎになった飛銀党(ひぎんとう)の若者たちが勢いよく川に飛び込み、猛然と泳いでいくその傍らで、無乃(ウーナイ)は裾を絡げてざぶざぶと水際に入っていく。  衣服は水気を吸って白い足に重く巻き付き、形の良い膝や太股のゆったりとした線を妖艶に描き出していた。  羅冴流(ルオフーリウ)がなんとなくちらっと無乃をみやったとき、腰の下から臀部にかけて、衣服に包まれているというのにまるでふしだらな気持ちを抱かせるような情感を覚え、ハッと赤面し、憂慮の面持ちで無乃の腕を引いた。 「……舟が」  無乃は突然引っ張られて驚きながらもおっとりと微笑み、羅冴流が何か言い出すのを待っていた。水しぶきの音にかき消されて彼の声が聞き取れなかったのだ。  冷たい水の波が少しずつ高くなり、さらわれてしまいそうなその体を羅冴流はやはり何も言わずに抱き寄せた。濡れた衣から伝わる無乃のほんのりと暖かな体温を、まるで味わうように触れている。下肢にはほとんど裸とかわらない肉の温もりが重なっていた。柔らかな肌の感触と、無乃の熱…… 「……舟が来ている、注意した方が良い」  羅冴流はたまらず絞り出して言った。  乱れた心臓の鼓動をこらえようと口元に手をあて、無乃を岸まで連れ戻す。手足の大きな彼の一挙手の身振りはよく目立ち、真っ赤な顔を隠すその仕草に、無乃は「彼はいつも大変そうだな?」と動揺してしまった。  自ら裸になるのは構わないくせに、衣服越しに触れあうと照れるというのは、一体何だろうね。と、羅冴流の赤面の理由も知らず一緒になって汗をかく。 「羅冴流、どうやらその舟は、私たちに用があるみたいだ」  無乃は額の汗をふぅと拭って、舳先を寄せてくる小舟を目で示した。  乳白色のもやが這い上る中、すーっと近づいてくる小舟には、まるで一本の木のようにまっすぐ背を伸ばした人影がある。やがてその顔がはっきり見えてくるようになると、舟を漕いでいるのは羅冴流よりも日に焼けた壮年の男性であった。 「何かご用かな」  目の前で舟を止める男性に、無乃はにこやかに尋ねた。  すると彼は失望した目をちらっと無乃に向け、その後ろで無関係を装う男を何の気なしに見た。風変わりな取り合わせだなと思い、さっさと舟を返そうとしたところ、ハッとわずかに顔色を曇らせた。  思わず「幇主(ほうしゅ)――!」と叫びかけて、射貫くような視線に口を閉ざす。 「いや、用事はないんです。人を探していただけで、あなた方の影が見えて、もしかしたらと近づいたんですが……」  無乃は説明下手なこの男性に首をかしげた。 「はぐれたのか?」 「それが、よくわからないんですよ。はぐれたというにしても、様子がおかしいんで。どうしたものかと困ってしまって」 「様子がおかしい? 突然消えたのかな」 「いやあ、突然消えるなんてこと、ありますかね?」  無乃は戸惑った。  ありますかね? と聞かれても知るはずがない。 「……よく探したのか? どこではぐれたんだ?」 「そこの山ですよ。晩景門のある、霊山」  靄の中に閉ざされていた山の正体が、男の背後に隆々と現れた。その忽然と見えだす黒々とした山影に、無乃は思いがけず目を瞬いていた。川のある方から見るのは初めてだっただろうか。かつて住んでいた山をまさか覚えていないとは、どこで記憶違いをしたのだろう。 「丁度良い、俺たちも晩景門へ向かうところで、よければついでに人捜しを手伝おう」  と答えるのは湖水から折り返して一番に戻ってきた万紅雪(ワンホンシュエ)だった。  水の滴る髪を鬱陶しく掻きあげて彼は川岸に上がった。 「晩景門に? あそこはもう廃墟になっていて誰もいませんよ。何をしに行かれるんです」  突然水中から現れた青年に男は奇妙な視線を投げかけている。  万紅雪は耳に入った水を抜いてから、男の怪訝な視線を睨み見返した。無乃の肩を押さえつけるように掴む。 「どうだろうな。奇秀(チーシウ)という公主がいるという話しだが。この白くて頼りなさそうなのが、その真偽を確かめるために連れてきた鑑定士だ」 「ですが、本当にあそこは誰もいないはずです」  尚も取りすがろうとする男に万紅雪が苛立つ。 「なら確かめに行けばすむことだ。あんたの連れも探すんだから、どうせ嫌でも寝る場所になるんだ」 「廃墟ですよ、それに、なんだか変な噂まであるらしいじゃないですか」  隠しもせず嫌そうな顔をする男に無乃は眉目で笑って見せた。 「変な噂とは?」 「無人なのは間違いないんですが、どういうわけか、人が集まるらしくて……」 「無人の廃墟に人が集まる? それはきっと、奇秀が呼んだ医者だろうね」  男は力なく頭を振った。 「そうじゃないんですよ」  ちらっと羅冴流を見た途端、ぶるりと震え、ひどく恐ろしげな顔をして若干体を引く。青い顔でへらへらと曖昧な笑みを浮かべてぺこりと頭を下げるので、無乃は羅冴流の知り合いなのだと思った。 「誰がいようといまいと、奇秀さえ確かめられればそれですむ」  と万紅雪が言ったので、暢達(チャンター)と言う頼りなさげな男はただの相棒捜しから渋渋ながらも無人の晩景門探索と奇秀謁見の一団に加わった。  無乃と羅冴流は小舟に狭苦しく乗り込み、万紅雪は川を横断して泳いで渡ることになった。その相談がすんだとき、 「万の兄さん……! あんた、恐ろしいほど泳ぎの達者な男だな!」  と、後から追いついてきた飛銀党の若者たちが息を切らして川岸に打ち上げられた。  ぜえぜえと激しく胸を上下させ、中々呼吸が整わない様子に無乃は舟の上からにっこりと微笑んで見おろした。  それもそうだろう。翠致幇(すいちほう)の人間といえば魚より泳ぐのがうまいのだから。それに万紅雪は特別で、幼い頃から羅将軍に泳ぎ方を仕込まれて育ったのだ。怪力自慢だけの飛銀党の若者たちではは歯が立つはずもない。 「飛銀党?」  すると取り澄ましながら無乃に指を突きつけ暢達が尋ねる。 「仲間か?」 「違うよ」  と素っ気なく無乃は答えた。 「無乃先生、あいつらを殴るかわりに一人連れて行こうと思うが、いいか?」  万紅雪が打ち負かした飛銀党をざっと見回して、無乃は彼らがくたくたになって戦意も削がれているようだと見ると、「よろしい」と一つ頷いた。 「施敗(シーパイ)だ。俺を連れて行ってくれ。是非協力する」  真っ先に名乗りを上げた大男は力強い顔立ちで無乃を見上げる。飛銀党の党首格のようだ。彼はすかさず膝を着いて頭を垂れた。 「無老大(ウーろうだい)、先ほどは礼を失して申し訳ない! 万の兄さんがあんたを先生と呼ぶなら、俺はあなたを老大と呼ばせてもらおう!」  声の大きな、それでいて堂々とした話しぶりに無乃は気圧されていた。 「老大と呼ばれるほどではないよ」  無乃は眉を八の字にしながらも、ゆったりと手を下ろす。施敗の耳のあたりにそっと指先を近づけた。  そうだった。彼らは認めたものに対してはるかに重い敬意をあらわし、自らの名誉もかけて尊重するのだった。  無乃は微笑した。 「立ちなさい。日が暮れる前に登ってしまいたいから、ここで談義している暇はないんだ。万紅雪と泳いでこられるかい」 「無老大!」  施敗(シーパイ)に目の前で大声を出され、無乃は思わずよろめく。それを後ろでさりげなく支える羅冴流に口元の笑みだけ向けて、無乃は気が利くねと微笑みかける。羅冴流がさっと顔を背けたので、無乃は笑みを引っ込める機会を失い、元気な施敗にそのままうっとりとした微笑を向けた。 「よろしく頼むよ」  ところで施敗はすっかり忘れていた。  この目の前の凄まじく美しい男が悪主座であることを。そして彼の悪逆っぷりをちょっと試してみようと絡んだことさえ、すっかり忘却の彼方であった。

ともだちにシェアしよう!