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古月をくだく(三)

 ゆらゆらと舟は向こう岸につき、無乃(ウーナイ)ら一行は緑こぼれる山の中へ分け入っていった。  言うまでもなく羅冴流(ルオフーリウ)万紅雪(ワンホンシュエ)、さらには暢達(チャンター)でさえ武人として内功は人並み以上の持ち主であったから、枝から枝へはしっと跳びながら懸け飛ばして、晩景門の山門が見えてくるのにはほとんど時間はかからなかった。  悠々と樹の上から蛇の子のような河川を見おろし、そのへりにこびりつくような小さな町をざっと見回しながら、しかし誰一人として朽ち果てた破れ院にたどり着けなかったのは次第に視界を阻むもやのせいだった。  ふと気づいたとき、先頭を走っていたはずの暢達が靄の中に呑み込まれていた。慌てて呼び戻そうと声をかける万紅雪と、周囲の異変に気づいた羅冴流もすでにお互いの姿を見失っていた。  ついに各々顔も姿もわからなくなってはぐれてしまったのだが、施敗(シーパイ)の肩に乗っていた無乃は誰よりも深刻な不安におかされて震え上がっているのだった。  色を失った空に、不気味な黒雲が広がりはじめていたのだ。  ただでさえ施敗は背丈が大きい。筋骨にも恵まれている。木々は開けて生えているせいで見晴らしがよく、そこでは無乃の頭がひょっこりとのびて何よりも高いのだから、ドキドキと鼓動は弾み、雷が今に落ちるのではないかと真っ青だった。 「無老大(ウーろうだい)、完全に見失ってしまったようだ……」  施敗(シーパイ)は無乃を抱えていたせいでするすると先を走っていく三人のようには身軽ではなかった。ついには視界の彼方へと消えて追いつけなくなったので、顔に手をあてて目を凝らし、きょろきょろと様子を伺っていた。存外、川と湖水を泳いで往復した疲労もあったのだろう。  無乃はちょっと遠慮しながらも、しかし雷雨の心配から施敗の首を優しくなでた。 「問題ないよ。先へ進もうか」 「先と行っても、どこを見てもまっ白で道なんか……」  施敗はその優しい声に気の抜けた返事をする。太い腕で頭をなでさすって困った顔をした。 「それにはぐれたときは無理に動かない方がいいとも聞く」  無乃はやれやれきかん坊だな、と呆れて頭を振る。  ちっとも焦ってなどいない様子で、もう少し強引に施敗の腕を叩いた。 「施敗、これは老大からの教訓だから、よく聞いて。道に迷って立ち止まるというのは、道を探す事を諦めるということだ。諦めてしまっては出口にさえたどり着けないということだよ。こういうときこそ動いた方が良い。とくに木の多いところがいい。人間、狭いところの方が落ち着くというのは、そういうわけだからね」  頭の傍で瞼を伏せ、昏々と説く無乃。確り聞いたとしても果たして何を言っているのかさっぱり理解できない施敗だが、もっともらしい口からでまかせを聞いた途端、暗い頭にぴかりと光が閃いたようだった。 「おっ、なるほど!」  と目を輝かせ、分からない言葉だからこそ深いのだと大いに頷いた。 「無老大、さすがに良いことを言う。なるほど、老大からの教訓だというのなら、俺は人生をかけて意味を解くしかあるまい。さて老大、先を進みましょう!」  (いた)く感銘を受けた施敗がどっしりと歩き出すが、しかしやはり道が分からないのだから蹈鞴を踏んだ。 「施敗、そのまま真っ直ぐだよ」  無乃はすました顔をして指をさす。 「よし、心得た!」  施敗はやはり無乃の言うことなら間違いないのだと、道なき道をひたすら突き進むのだった。  迫り立つ岸壁をのぼらせたと思ったらすぐに下らせ、あの木の上だと言えば、そっちの崖下だという。そんな風に施敗を翻弄させてから、無乃はにこにこと微笑んだ。 「さて、それで施敗、暢達はまいたようだから、私をそろそろ下ろしてくれるかな」 「えっ!」  と施敗が驚きの声を上げる。 「どうして暢達をまくんだ?」  小気味の良い施敗の反応に、無乃は悪くないと思いながら彼と向き合って座った。まるで見えない机と書物がそこにあるかのようだった。  しかし無乃は遠慮無く施敗の顔をのぞき込み、気さくな笑顔で尋ねる。 「君と暢達は知り合いか?」 「え?」  施敗の顔が今度は僅かに曇る。脅すつもりのなかった無乃はやわらかく首をかしげた。 「違うなら別に良いんだ。ただ暢達が私に君たちの仲間かと尋ねたのでね。それに君たちはあの川沿いの店によく出入りしているのだろう」 「どうして出入りしていると言い切れる?」 「客たちが全く逃げていなかった。慣れているからだろう。君たちがあまり暴れず、店を壊す様な真似をしないのを知っているからだ」  目を細める無乃に施敗は照れ笑いを零すしかない。店で物を壊しすぎて弁償の問題を抱えていのだ。乱暴をするなら外でやると決めていたし、店内でもなるべく穏便にすます予定だった。それを見抜かれてしまっては、格好がつかない。 「面目ないな」  最初から面目などないだろう、と無乃は少し乾いた声で胸の中で呟いた。 「それで、何か噂を聞かなかったかな。この山について知っている事を教えてほしい」 「無老大、あなたを見込んだから話すんだ。あの山に晩景門の院があるというのは間違いだ。暢達のことは少し前に道を尋ねられた程度で、詳しくは知らない。俺が無老大にお供を(つかまつ)ったのはあの男が夜のうちに度々山へ入っていくのを見かけたからで、俺も気がかりだったんだ」 「人が集まるというのは?」 「さっぱりわからん! そんな事は聞いたことがない!」  施敗の投げやりな口調にそうかと無乃は考え込む。  やはり記憶違いでは無かった。  かつての幽谷の面影に心当たりを探せなかったのは知らない場所だったからだ。ではなぜ暢達はここを晩景門の山だと言ったのだろう。それに消えたのかはぐれたのか、あの歯切れの悪さ。もしくはもっと何か大事なことを隠しているのか。晩景門と偽った無人の院に人が集まるというのも中々奇妙なことだ。どんな人物が、なんのために集まるのだろう。 「とりあえず、そろそろ羅冴流が来るはずだよ」  施敗はまた、無乃がわかったように言ったのでハッと顔をあげた。 「……まさか、千里眼の持ち主か何かか?」 「彼には私を見つける才能があるからね」 「犬でもあるまいし嗅ぎ分けられるはずが……」  などと話しをしていると、やはり靄の中からぼんやりと人の影のようなものが近づいてくる。  その内段々と立体的に影が浮かび上がり、すぐそこまでやってくると無乃は瞼を伏せて口元に微笑をたたえた。 「遅かったね、羅冴流」  無乃はほら、やはりきた、と自信満々にちらっと視線を上げた。

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