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古月をくだく(四)

 無乃(ウーナイ)施敗(シーパイ)の期待を背負って靄の中から現れたのは、ひどい顔をした万紅雪(ワンホンシュエ)である。  体を震わせながら大笑いしたいのを我慢しているが、時折唇の端から「ふっ」と空気がもれていた。無乃がまったく平気な顔をして微笑んでいるのをみると、なさらおかしくてぷっと噴き出し、 「あ、だめだ、面白すぎるだろ――」  と言うとまるでせき止めていた水が溢れ出すように、「は、は、」と体をゆらした。 「あ、ははは!」  万紅雪の気持ちの良い高笑いが谷にこだまする。  大声で笑うのを傍で聞いていた無乃はすました顔をしながらも、さすがに目元を赤く紅潮させた。どことなく気恥ずかしい面立ちでむず痒く唇を結ぶ。  そんな見栄っ張りな無乃があまりにもおかしくて万紅雪は笑いが止まらない。 「……それで、るお……」  羅冴流(ルオフーリウ)とどこではぐれたのかな? と問いかけようとする最中にも、面白いものを見るような万紅雪の目が、途端に涙をこぼして再び噴きだした。 「羅冴流か! あははは! 俺を、あいつと間違えて、自信満々に呼びかけるんだから! 間違われた俺の立場を考えてくれよ、無乃先生!」  そんな事を再三、落ち着いた矢先に思い出しては笑い、笑っては「無乃先生が……」と続ける万紅雪にいい加減呆れ果てた。  よじれた腹を抱えて笑う万紅雪を睥睨し、静かに呼びかける。 「万紅雪――今の時期、夜はとっくに冷えるだろうね」  はは、とまだ笑っている万紅雪が「なんだって?」と涙を拭う。  無乃は続ける。 「青桐の木がそこにあるが、今回は誰も君を助けないだろう」 「ははは……は……、」  途端にすっと顔を強張らせ、万紅雪は脳裏に蘇る記憶にゲッと青ざめた。羅将軍に大量の油を塗りたくって叱られたのは大雪の降る夜だった。  百一条もある家訓を(そら)んずることを命じられ、垂れた鼻水が凍る手前、当時一つか二つ年上の子どもに無事下ろしてもらったのだが、青桐の枝から逆さに吊された嫌な思い出は拭えない。背中にひやりとした物を感じると同時に、どうして無乃がその出来事を知っているのかと万紅雪は驚いていた。  無乃は万紅雪の疑った目をさらりと受け流して指をさす。 「ほら、院がみえてくる」  雲は低く下りて雨の気配を含んでいる。山の端はすっかり隠れて何も見えなかったが、無乃が指をさした途端、吹きちぎれた雲の割れ目から陰気な廃墟があらわれた。  落葉の音が寂しげに降り積もり、庭は乾いた風が冷え冷えと吹き抜けていく。  今にも崩れ落ちそうな室内に入っていくと、部屋の中は直前まで人がいたように生ぬるい。床にはいくつかの乱れた靴跡があり、何者かが集まるという噂は本当のようだと無乃は一瞥した。 「……誰もいないのか?」  部屋の奥へと続く足跡を目で辿る無乃の背後で、万紅雪が慌ただしく奇秀を探していた。  本物か偽物か、その真偽を確かめるためにわざわざ「晩景門」までやってきた万紅雪なのだから、目当ての人物がいないなんて想像もしていなかった。 「ここは晩景門ではないよ」  踵を返す万紅雪に、無乃はたまらず引き留める。瓦や床下をひっぺ返そうかと本気で考えていた万紅雪がぴたりと立ち止まった。眉をひそめて少し睨むように考え込んでから、ふぅんと無乃のいうことに納得する。 「……暢達(チャンター)がここを晩景門だと言っていたはずだが、あいつが勘違いしているということか?」  無乃は万紅雪の疑問を背に隣の部屋を見つめていた。 ゆっくりと頭を振る。 「人がいたようだね」 「なに?」  万紅雪と施敗が口を揃え、無乃の傍へ競うように駆けつけた。押し合うようにして部屋の中を覗き込む。  一見、荒ら屋の草臥れた部屋に見えて、何もない。しかし、誰かが持ち運んだのか、美しい鏡台の影に、人の手足のようなものが見えている。  近づいてやっと、床に重なるようにして倒れ込んでいるのが一組の男女だとわかった。 「息はあるのか?」  舌打ちしながら彼らに駆け寄る万紅雪が、倒れている人物を一人ずつ仰向けに返す。口元に手をあてるとどちらもすでに息はなく、しかしついさっきまでは生きていたようだと、まだ柔らかな皮膚の感触を無乃は確かめていた。 「無乃先生、この女の顔を確認してくれ」  奇秀が生きていれば二十歳過ぎ。男の下に倒れていた女性も、上等な羅綾の織物を身につけ、金細工の簪をさして、容貌はまさしく花咲く年頃の二十歳であった。  無乃は口の中を確かめた。小さな歯は血に染まり、喉の奥には吐物が詰まっている。男性の方も同じように毒物で命を奪われたらしい。 「奇秀だろうね……」  ぽつりと呟くと、ハッと青ざめた万紅雪がものすごい顔で無乃に詰め寄った。 「本当か?」  無乃はその剣幕に穏やかに微笑む。  驚かし甲斐のある青年だ。 「そうだよ。この女性が真似をしたのは、奇秀だ」  なんだよ、と万紅雪は呆れて「人が悪いぜ、無乃先生……」とたしなめた。 「だがそうなると、奇秀の真似をしたこの女はなぜ医者を呼んでいたんだ?」 「決まっているよ。私をおびき寄せるためだろう」 「病が悪化したか?」  ふふ、と無乃は瞼を伏せた。 「もしくは、暢達が殺したかな。ここには人がいないだとか、本当は人があつまる場所だなんだと、私たちを怖がらせようとしたのかもしれないね。近づけさせたくなかったから」 「だからこの山を晩景門の霊山だと言ったのか」  合点がいったように施敗が手を叩く。 「おや、賢いね、施敗」  無乃は女性の傍にしゃがみ込んだままだった。奇秀に化けた彼女の袖をそっと抓み持ち、細い二の腕を確認した。  まっ白で綺麗な腕には王家の印の痣まではなかった。前王朝の奇家とは全く無縁の女性ということだ。 「この二人は私を呼んでいたが、暢達が殺してしまい、しかも発覚を恐れて私たちを遠ざけたんだろうね」 「無乃先生を呼びたがるやつなんて、大概変わり者だ。我氷津(ウオピンチン)もそうだし、寧太丁(ニンタイティン)だとか、張浮(チャンフー)だとか――」  万紅雪は奇秀が偽物だったと知ってすでに興味を失った様子だ。雲は低く垂れ込めて雷鳴も近い。遠くの方は雨が降り出して景色がかすんでいた。 「無乃先生、はやいとこ羅冴流を回収して戻ろう」 「えっ、このままにして戻るのか?」  死体を目にし、なおかつ殺した相手も分かっているのだから、暢達を問い詰めて事情を聞く展開ではないのか? と施敗は戸惑う。 万紅雪は今度は大きく、施敗にも聞こえるように舌打ちをした。 「無乃先生は忙しいんだよ」 「しかし、このまま放置しては気の毒だろう。せめて手頃なところに埋めてやらねば」 「死んで間もない死体の傍にいる方が危険だ。無乃先生、帰るぞ」  無乃は遠くの空が一瞬、稲光が走ったのを、「そうだね」と同意しかけてから慌てて言葉をのみ込んだ。 「万紅雪、今夜はここで一夜を明かした方が良い。特に私は君のように体力があるわけではないから、山を下りるのに時間がかかる。それに肩に担がれるのも疲れるからね。君も休んだ方が良い。羅冴流もいずれ暢達とここに来るだろう」 「なら好きにしてくれ」  万紅雪は無乃に軽く手を振るとあっさりと部屋を出て行ってしまった。身軽に山を駆け下りていくその姿はすでに見えない。

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