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古月をくだく(五)

 このままではいよいよ、体(てい)の良いただの子守だ。  そんな危機に、万紅雪(ワンホンシュエ)は宙を滑空するように樹から樹へと飛び移って、真剣に考えていた。  無乃(ウーナイ)に張り付いて四六時中彼を離れたところから世話をするのは、子どもか年寄りの見守りと同じで、特に無乃は歩くのが遅いくせに一時たりとも気が抜けない。世の中の面倒事が彼を中心に吸い寄せられていくために落ち着いていられる暇も無かった。  何より万紅雪には無乃の子守より大事な使命があり、それを果たさなければ首魁の後さえ追えないのだ。翠致幇(すいちほう)では首魁の言葉が掟である。例え死んでいようと奇秀(チーシウ)を見つけろと言うのであれば、土を掘ってでも見つけることだ。  後腐れ無く無乃と別れて休みなく走ってきた万紅雪だが、しばらく駆け下りたところで足を止めた。  こちらは樹の上であり、向こうは枯れ草の中に立っている。しかしお互いに気配を感じてふと視線が交差した。  ばったりと、羅冴流(ルオフーリウ)と出くわしてしまったのだ。 「あいつ、……何してる?」  鼻血を垂らした暢達(チャンター)を、まるで土嚢(どのう)でも引きずるように首根っこを掴んでいた。その拳に若干の血が滲んでいるのを見ると羅冴流が殴って気絶させたらしい。  万紅雪は木の上から二人を悠長に見おろした。無視をして通り過ぎようかとも思ったが、その瞬間、羅冴流が何かを投げて寄越したので、万紅雪は立ち去りそびれてしまった。 「傷をつけられたと、言ったな」  パシッと思わずそれを受け取ってしまってから、彼が何について言っているのか理解できずにいる。 「俺の心配をしてるのか?」  ともすると鳥肌が立つ。そんなはずがない。よくよく黙って続きを聞いてみると、 「痛がっている様子はなかった」  痛がっている様子?  そんな極端な情報だけで羅冴流が何を言っているのか分かれば、言葉など必要ない。以心伝心で通じるということだ。しかしこの場合、相手は羅冴流だ。むしろ通じない方が良い。しかし万紅雪は残念なことに、「あ、」と、彼が無乃の事をいっているのだと勘づいてしまった。 「小さい切り傷だ。重傷ってわけじゃない」  霧雨が木立の間を漂って、羅冴流の顔色はそのまっ白な中に隠れてしまう。 「どこに怪我を」  怪我の具合を聞く口調は冷たい。やっぱり、彼は無乃が特別なようだ。言葉尻には無意識なのか、羅将軍以外に人に興味の無い万紅雪でさえ何か感じるものがある。 「親指――やがて死ぬ呪いだと言っていた」 「人は放っておいてもそのうち死ぬ。誰がそんな安い言葉を信じる」 「注意してやってるんだ」 「注意?」 「徐明(シュイミン)だ――聞き覚えがあるなら、裏切ったあんたにわざわざ俺が忠告する意味も分かるだろ。あんたが気をつけるべきだ」  これだから傲慢ちきなやつは、と万紅雪は捨て台詞を吐いた。  これで羅冴流の顎に使われずにすむと一時の開放感を味わう。手には羅冴流から渡された小さな物を握ったままで、その存在が僅かにも万紅雪の気を引いた。  捨ててやろうかとも思ったがなぜか思い切りが悪く、恐る恐る開いてみると手のひらにあるのは一枚の銅銭だった。  飯を、これで食えって事か?  それとも子守のお駄賃か? 「安すぎるだろ――!」  俺の労力をなんだと思ってやがる。  万紅雪は思わず立ち止まった。銅銭一枚の意味を考えているうちに、夜が更け、土砂降りに打たれ、朝の陽が出る頃まで立ちすくんだまま、頭を抱えて悶々としているのだった。  一方、羅冴流は雷鳴を発する山頂へと急いでいた。  暢達の襟を掴んだまま樹の上や崖を渡り、ぶらぶらと重い手足に目測を誤ってうっかりぶつけつつも、暢達の意識は未だに戻らなかった。むしろ、羅冴流がぶつけるせいで長い昏睡に陥っているようだ。  何度かのぼったり下りたり行き来を繰り返す。雨脚がひどくなってくると堆く積み重なった落ち葉が流れ出して、足場はさらに悪くなっていた。  羅冴流は少しの間崖の方を睨み付けていたが、やがてふっと踵を返して雨煙の中へ身を消してしまった。

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