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芳名を吊す(三)
暮れかかる空に細い三日月がおぼろげに浮かんでいる。山の端はまだ残照の炎に燃えて赤かった。
羅冴流 は夕日を浴びる部屋の中で今し方ひとつしかない牀 に男を横たわらせ終え、凝った身体をほぐしているところだった。まだ余力はあると言いたげな顔つきをするので、無乃 はすぐに羅冴流の顎を掠めるように捉え、視線を奪った。
「あとで身体を揉んであげるよ。どこが痛い?」
暖かな眼差しと、澄んだ美しい瞳で羅冴流の顔を覗き込む。すると羅冴流が息を呑んだまま固まった。匂やかな目元のほくろのその色香にあてられたのだ。すぐさま質問の意図にピンとしつつも、揉んでくれるというご褒美にゆらぎ、視線を逸らしたまま困った顔をする。強がりを見抜かれたことに敵わないなと苦く思っているようでいて、その実喜んでもいるらしいのだ。無乃の手を下げつつ、羅冴流はいっそのこと……とにっこりと微笑んで疲労を認めた。
「身体中、痛い」
無乃はうんうんとやる気になって袖を絡げる。
「構わないよ。けれど気をつけて。なんともないところを揉むと激痛がするらしい。以前それで怒られたことがあるから」
「誰が君を怒る?」
「一番弟子の星夕 だよ」
無乃は少しためらいがちに微笑んで言った。膿と虫だらけの彼を拾い、本当の弟のように親身に世話をした少年だ。
部屋を用意した女の名前は宣彩 といい、両親が早くに亡くなると結婚もせず一人で宿を営んでいるという。その小さな宿屋の二階で、無乃は清潔な衣服と絹を用意させ、桶には井戸の水を汲ませた。
男の傷口に絹布を巻きながら、獣に襲われた腕の傷をすっと指先でなぞる。男を拾った川岸のあたりには獣どころか人の足跡もなかった。彼が襲われたのはおそらく別のところで、それに獣に逃れて自ら木をのぼったと言うよりは、高いところから誰かに突き押されて木に引っかかったとでもいうようなのだ。
折れた指を引きずって木を這いのぼるのは並大抵のことではない。それに、反対の手を見ると、短い爪は染みこんだ泥で汚れているだけで、木の幹を引っ掻いた痕もない。
無乃はこの男を宿において行ってしまおうとも思っていたのだが悩み始めていた。少しすると男の怪我は暴漢に襲われたと言うよりは罰を受けたに近しい状態に思えるのだ。
宣彩 に迷惑がかかるかなと無乃は気が引けた。
それにどうやらこの町は普通ではないらしい。
背中を目一杯伸ばしつつ、水を汲んできた宣彩ににこりと微笑む。
「ありがとう、宣彩。ところで、あの旗は一体何かな」
窓の外に夕日を反射して赤く翻る旗を目で示す。すると宣彩 が「あれね」とさらっと言った。
「喬大雀 が首を討ったんだよ、悪主座の」
「――悪主座の、首?」
無乃は喉を詰まらせ吃驚と目を見開いて聞き返す。
「――誰を討ったって?」
「だから、悪主座の首だってば」
同じせりふである。
無乃はふらっと立ちくらむ。羅冴流は悪主座の復讐に駆り立てられてここまで着いてきたのだ。それなのにもう死んでいると聞けば無乃は別人ということになってしまう。
困ったな、と焦る無乃はふと、一番動揺するはずの羅冴流が黙り込んでいる事に気付く。復讐相手が殺されて声も出せず絶句しているのだろうか。それもそのはず。ここまでつけまわしてきた労力が無駄になったのだから。
しかし、それなら私は一体誰だというのだろう? ぼんやりと間の抜けたことを考えて、混乱する無乃を他所に、宣彩 は苦い顔だった。
「本当かどうかは知らないよ。顔を見たことがないんだから、竹に突き刺しているのを、見分けがつくはずもないだろ。でも目元のほくろが特徴らしいね。そうよ、丁度あんたみたいに」
無乃はひょっとするとこの女性はどんな病でも治す晩景門の無乃と知って声をかけてきたのだと思った。
他にどんな目的があって、わざわざ深手の男を背負った怪しい遊客を宿に招くだろうか。それに彼女は喬大雀が悪主座を討ったとは思ってもいないらしい。
「まるで信じていない様な口ぶりだね」
「悪主座っていうんだから、たった喬大雀一人、しかも討ち取った当時は十代の少年だっていうじゃない。そんな小僧に殺せるとは思えないよ」
無乃はおや? と宣彩 の言葉に少し引っかかる物を感じた。
それとは別に彼女はおそらく何かを隠しているようだが、それはさっぱりわからない。ちらりと隣の羅冴流を見ると、余計な力を抜いて平然とした顔で立っている。彼もおそらく何かを感じているのだろう。けれど態度はいつもどおり凜として強かさを感じさせた。
「さすがに君は堂々としているね」
感心していうと、羅冴流が目を細めた。
「俺が混乱していたら、誰が君を守る」
「それなら、忠実な君を信用して、彼の身体を拭いてあげてよ」
「どうして俺が?」
目を瞬く羅冴流に無乃はしっとりと微笑んだ。
「さっき、汗を拭うと言っていただろ」
「この男に言ったわけじゃない」
「どっちでもいいよ。君を信用しているんだ」
羅冴流は「信用だって?」とあからさまに驚いた顔をする。悪主座が討たれたと聞いたときは澄ました顔をしていたくせに、なんて素直な反応をするのだろう。
無乃は構わず濡れた絹布を押しつけた。羅冴流がため息を吐きつつ男の身体を拭っている間、無乃が何をしているのかというと、ぼうっと窓の外を眺めていた。あの仰々しい誉れ名を翻す旗を、闇の中に消えていくまで見つめていた。
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