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芳名を吊す(四)

「あいにく客室は一つしか空いてなくて……」  と宣彩(シュワンツァイ)が申し訳なさそうに言った。 「納屋なら空いてるけど」  宣彩は庭をはさんで斜向かいにある小さな建物を指さす。気は進まないといいながらも客を案内する彼女に、無乃(ウーナイ)はゆっくりと首を捻って穏やかに微笑んだ。やはりここは少しおかしいようだと疑念を深めていた。  客室はたった一室しか空きがなく、その部屋のたった一つの牀に怪我人を寝かせているために、無乃と羅冴流の寝る場所はない。まさか団子になって男三人、狭い牀の上で密着して寝るとでも思っているのだろうか。  無乃は羅冴流(ルオフーリウ)のために隣の部屋を借りさせてほしいと宣彩(シュワンツァイ)に交渉したのだが、他は満室だという宣彩におっとりしながら息を吐いていた。  どう考えたってそれは嘘なのだから、なぜすぐに分かるような嘘を吐くのかという落胆でもあった。  無乃たちが使っている部屋は階段を上がってすぐの角部屋、人の出入りがあればすぐに分かる。あまつさえ隣からは一切物音がせず人気がない。それに宿屋だというのに厩に一匹も馬を繋いでいないのもおかしい。もはや宿を営んでいるという話さえ違和感を覚えてくる。 「無乃、あの男をここに押し込もう」  万事解決したと言いたげな羅冴流の声に、無乃は考え事から意識を戻す。ふっと微笑した。 「私たちが、綺麗なあの部屋をつかうのか?」 「俺たちはよく看病した。意識が戻る前に連れ戻せば良い」 「何を言う、羅冴流。怪我人をこんな劣悪な環境におけるわけがない」  部屋に戻って宣彩(シュワンツァイ)とのやり取りをそのまま告げると、羅冴流が面白がって無乃を伴い、納屋の前までやってきていた。  蜘蛛の巣だらけのほこり臭い納屋で、使い古された鍋や壊れた椅子、机が乱雑に詰め込まれていた。なんとかどかせば一人分の空間は確保できそうだが、朝までくしゃみに襲われるのなら、多少窮屈でもまだ清潔な客室の地べたに転がっていた方がましだろう。  羅冴流もおおよそ同じ考えで、二人は一度目を合わせるとその目つきから同じ気持ちだと知り、二人して「ふふ」と微笑んだ。  納屋は見なかったことにして足早に後にした。  部屋へ戻るその途中、宣彩(シュワンツァイ)が筵をいくつか抱えて持ってきた。草臥れた顔をしていたのでそのまま軽く礼を言って別れ、無乃たちも早々に部屋に引き払っていく。  床に筵を敷き終えると無乃はすぐに横になった。 「君も好きなように寝ると良い」  今夜だけは不満はこらえるからという。それを少しも嬉しそうにしない羅冴流は窓枠に腰掛けて微笑んだまま、涼しい夜風を浴びていた。その静けさと、星がキラキラと奏でる美しい空に無乃もいつしか目が冴えている。  悪主座の復讐を誓う羅冴流。前王朝の生き残りの皇子を気にかけるほど、何か特別な物があるのだろうか。生き残った奇秀(チーシウ)は希代の嫌われ者。そのせいで偽皇子などというものが現れて世が混乱したのだから。それなのに、羅冴流はまるで奇秀の忠実な従者のように一人悪主座を追っている。なぜ、それほど……  無乃はぽつりと、その疑問を口にしていた。 「君はどうしてそこまで奇秀のために動けるんだ?」  すると羅冴流が爽やかな顔に微笑を浮かべ、息苦しい胸元を緩めると少しだけ寂しげな顔をした。 「昔、少しの間一緒に住んでいた時期があった」  語り出す羅冴流は遠い目をする。 「死にかけで、身体中膿にまみれて誰からも忘れられていた。誰の子どもかも知らず、名前も知らず、だが、その子どもの膿を吸って命を助けたのは奇秀だけだ。十年も探し続けた。やっと見つけたと思ったのに、奇秀は死んでいた」  奇秀が死んだのは十五のとき。  それよりさらに十年前というと……  王朝の滅んだ年だ。  無乃は遠い記憶に思いを馳せるように瞼を伏せた。  膿だらけの少年……  醜い膿に蝕まれ、誰もが嫌って捨てていった彼を見つけ、厭わず膿を吸い出した奇秀。病気がちで人より医者にかかることが多かったから、大体の病に対する処置は知っていた。その後、無乃として星夕(シンシー)を助けたのは偶然だと思っていたが、もしかしたらずっと、彼の事をどこか心の中で覚えていて、まさか重ねて見ていたのだろうか…… 「その目元のほくろ、うまれつきか?」  羅冴流がたずねる。  無乃はぼんやりとその問いかけを聞き流していた。  公主を下賜された翠致幇(すいちほう)の首魁、将軍の苗字は(ルオ)だった。その養子が、冴流――  彼を城塞へ連れて帰ったのは雪の日。どうして今まで将軍の名前を忘れていたのだろう。  公主とは紛れもなく奇秀のことである。城から逃がすために両親が機転を利かせ、公主として羅将軍のところに送り込んだ。おそらく羅冴流は奇秀を少女だと思っているはずだ。  無乃は声の調子を変えずに、混乱をおさえて咄嗟に答えた。 「そう、うまれつきだよ」  ほとんど羅冴流の質問を気にかけてもいなかった。微笑を浮かべていた羅冴流の目元にふっと怪訝な物が滲んだことに無乃はまだ気づいていない。 「片眼、見えないと。どうして?」 「それもうまれつき――」 「棍棒に殴られた。以前はそう、言っていたが」  以前――  はたと、しまった、無乃はようやく失言していたことに気づき口を閉ざす。  なんてずるいことを。  どう答えていたかなんて逐一覚えていない。たしか羅冴流の刺青を初めて見て動揺していたし、彼の事をあまり信用していなかった。 「それは、君の同情を買いたかったからそういっただけで、本当はうまれつきなんだ」  無乃は焦りを押し殺して穏やかに微笑んで言う。 「どうして怪しい人間の同情を買う? 無乃、君、以前から思っていたが晩景門の悪主座ではないだろ。誰を庇ってる。しばらく君といたが運動神経の悪い君が人を一人、殺せるはずがない」  羅冴流は詰め寄りながら段々とその語尾を強めていた。 「君は、誰だ」  背を向けたまま硬く両手を握り締め、無乃は答えられない。  すっと呑み込んだ息が喉をふさいで言葉がでなかった。奇秀を否定された無乃が、無乃さえ否定されたら……その恐怖にぞっと怖気立ち、唇は震えていた。 「私は……」  誰も信じてはくれなかった。  奇秀は殺されたのだと言われた。一人逃げたから罰があたり、無残に首を落とされたと。その墓が無名のまま造られていようとは思わない。あそこに眠っているのは、私であるはずの誰かの骸と、血と、私の名前。奇秀という名前を捨てなければいけないと気づいたのはそのときだった。  それなのに、無乃であることさえ信じてはくれないというのだろうか。  王朝が終わりを迎えたとき、山の中を駆けずり回り、両親や姉妹、臣下の死を国境で聞いた。当時私はたったの五歳だった――

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