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芳名を吊す(九)
つまり、万紅雪 はやはり気が短いわけである。
のどかに草や花、蝶と戯れてのんびりと、ちょっとじれったくなるような無乃 の足取りに付き合っていられなくなった万紅雪が、彼らを置いてずっと先の方を歩いていたのだが、突然くるりと向きを変えて戻ってくると無遠慮に無乃を抱き上げた。
「はは、すまない……」
否応なく肩に担がれてしまったので、無乃はおっとりと微笑んで言ってみるものの、目元のほくろからは憐憫を誘う哀愁が漂っていた。
羅冴流 でさえ、無乃の心情を考慮してここまでの強硬手段はとらなかった。なにより羅冴流はちんたら歩く無乃に短気が起こったこともなく、むしろ目的地まで二人きりで過ごせるのだから望んでいるところもあったのだ。
そんなことを遠くのものを見るような目をして思い出し、無乃はくたりと疲れ切った笑みを浮かべた。
「羅冴流は歩幅をあわせてくれるのだけれどね……」
「俺は羅冴流じゃないからな」
「君ももう少し余裕を持つべきではないかな」
大人の――、と付け足す無乃に万紅雪は唇を尖らせた。
「余裕? 羅冴流が、まさか。あいつは大分しつこくこだわりそうだ」
「しつこくこだわる?」
「俺はあっさりしてるが、羅冴流はそうじゃない」
「なんの議論かな」
「ああいう陰険なやつは相手が泣きわめこうが逃げようが、抵抗の手段を奪ってしつこく責めるに決まってる」
「拷問の話しか」
無乃の声が華やいだ。あたりだろ? 得意な顔をして万紅雪を見ると、彼は口をあんぐりと開けている。
「おい、まさかあんた、拷問されたのか?」
声をひそめ、あまりにも酷たらしい目にあったのではないかと取り乱さんばかりの勢いで無乃の腕を取り上げた。
見当違いもいいところだとその姿に悩ましく絶句する。
「……そんなわけないだろ」
むしろこちらが尋ねているのだ。それなのに万紅雪はまるで会話を交わす気がないようで、頭を抱える無乃をよそに、まさか肌に傷が残ってしまってはいないよなと袖をまくり上げていた。
「拷問なんてされていないよ」
無乃があっさりと否定したのを聞くやいなや、おどかすなよと苛立った。
奇秀の真偽を見抜く大切な医者なのだ。それに支障をきたすようなことがあってはならない。そう思っているらしい。
「俺は尋問の話しをしてたんだ」
「ああ……尋問ね」
にこりと微笑む無乃は上の空である。尋問と言われ、むしろ拷問よりひどい記憶があるような気がしないでもない。すっかり思い出すのはなぜだか非常にためらわれて、無乃はあっけらかんと話題を変えた。
「それより、万紅雪、猫はどうした? 君が育てることになったと聞いたよ。名前はなんてつけたんだ?」
「無二 だ。――羅冴流がそう呼んでいたから、そのまま呼んでいる」
無二――!
なんて親馬鹿な羅冴流。
二とは天地陰陽の数字。冬至と夏至を意味する二至の二、また二世縁は夫婦の契りを意味し、遠方の友を忍ぶ二千里外故人心、その、「二」でもある。
二つとない、比べるもののないという意味で、唯一無二、その「無二」である。
無乃は息を吐くのも忘れるほど呆れていた。
「かけがえのないものだというのか――?
大層な名前を猫一匹につけたものだ。」と心の中で白らかに思う。
「無乃先生の弟のつもりだろ。二は次男って意味で、無は無乃先生からとったんだ」
万紅雪が掃いて捨てるように言った。
無乃はそれを聞いて、なんて安直な……と万紅雪の無邪気さに唸る。思えば彼は翠致幇に育てられたようなもので、「書」、「机」、「筆」という言葉を少しでも口にしようものなら羅将軍から臀を叩かれるほどめためたに暴れ回って逃げていたのだった。
氷の溶けかかる早春の懐かしさを思い出し、危うく込み上げてくるものがあった。それが、こんなに大きく立派になってしまって、中身は幼い頃と変わらず傲慢で我が儘なのだから思わずじんと胸が詰まる。
その万紅雪が猫を無乃の弟だと言ったので、それなら羅冴流の意図はもっと違う意味を含んでいるだろうと考え直した。
「失敗を繰り返すという意味の二舞か。もしくは二豎 、病魔を意味する言葉だ。さては二心 の二からとったのかもしれないね」
こちらの方が意味は通りそうだ。実にしっくりくる。猫につけるには大げさだと思ったが、なるほど、私を呪っているのだね。
無二も気の毒に。張浮 に呪われたり羅冴流に呪われたり、順風満帆な猫世とは言いがたい。
その羅冴流は少し先を歩いていて振り返ることはなかった。猫の名前の意味さえ訂正しようとしないのだから、無乃はますます羅冴流からの恨みの激しさはゆるぎないものだと思うに至るのだった。
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