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古月をくだく(七)

「俺が?」  汗と泥を流そうとご満悦の施敗(シーパイ)が片足を上げ、いざ湯船に浸かろうとしているところだった。大声とともに押し入ってきた人物に、火急の知らせか、はたまた非常事態か! といった具合でカッと目を剥いたまま固まった。  戸を蹴破る勢いで駆け込んできたのが、無乃(ウーナイ)を引っ張ってきた羅冴流(ルオフーリウ)だと知ってもなお、身を縮めたまま硬直し、二人の慌ただしい気配に気が動転したとみえる。  びしょ濡れの真っ青な二人の顔を見比べて、取り乱した様子で湯船に視線を落とした。 「……よし、それなら俺が無老大(ウーろうだい)を抱えて、……だが三人じゃ、ちょっと狭すぎるか?」  などと、とんちんかんなことを言うので、無乃は天を仰いだ。 「誰が入ると言ったかな。違うよ施敗、君一人でゆっくりしてくれ」 「いや、無老大、折角だが、俺は後にしよう。庭に倒れているあれは暢達(チャンター)だろう。羅の兄さんが捕まえてきたなら、何もしていない俺が最初に湯を浴びる訳にはいかない」  無乃は素早く施敗に寄り添って肩に手をおく。身繕いを始める彼を押しとどめて「まあまあ」と沐浴を勧めようとするが、施敗は頑として譲らなかった。衣服を軽く着流して暢達を拾いに出て行ってしまった。 「見張りは俺に任せてくれ!」  などというので、無乃はあてが外れてがっくりと肩を落とす。 「しばらくは目覚めないはずだ。施敗、気を張る必要はない」  雨の向こうから叫ぶ施敗に羅冴流の淡々とした指示が通る。大声でもないのによく聞こえる声で、その凜々しい口調にはふにゃりと曲がった背中がピンと伸びるほどの威圧感さえある。自然と人を惹きつける威厳を備えている羅冴流に、無乃はそっと彼の顔を盗み見た。  眼差しは自然と「さすが、幇主だな」という、どこか自慢げでもある輝きを帯びて、羅冴流に釘付けになっているのだが、無乃はただしげしげと熱心に羅冴流を見つめているだけだと思っていた。  実際は眩しい破顔微笑である。身が危ぶまれるほどの美しい男子が色香を漂わせて微笑めば、遠慮がちに微笑する羅冴流もたまらない。  息を殺して耐えていたが、あるときふっと口元を覆って顔を隠してしまった。 「おや、勿体ない」  心にあるのだかないのだか、判断の難しい声色だった。  てきぱきと動く施敗が房室へ入っていくのを見届けてしまうと、耳に聞こえてくるのは滴り止まない雨音だけになった。  無乃は静まり返った浴室で息を零す。立ちこめる暖かな湯気が雨で冷えた体を優しく包み込むようだ。 「仕方が無い……」  赤らんだ顔のまま瞼を伏せる羅冴流を見ると、戸に寄りかかって出口を塞いでいる。彼は無乃がお湯に浸かるまでそこにいるつもりらしい。  これだけ汚れ、さらには雨にも濡れて、それなのに頑固に入浴を拒めば逆に怪しいだろうね、と無乃はついに観念した。なんの前置きもなしにしゅるっと帯を解く。肩に一枚だけ上衣を羽織って、他は全て脱ぎ捨ててしまった。  濡れた湯船の端にちょんと膝を置き、身を乗り出してお湯を掬う。ピリピリとした刺激が肌に走る、どうやら酸性泉のようだ。  冷えと、疲労回復、痔の痛みに加えて化膿にも効果がある療養泉なので、無乃は肌になじませるようにゆっくりと体にかけた。 「いいお湯だ。これなら傷もすぐに治るかな」  酸の刺激に傷は痛むが、無乃は縁に腰掛けてから、つま先をゆっくりと湯船の中に浸けていく。 「無乃……、」  と、思いがけず背後から羅冴流の手が伸びる。 「ああ、気が利くね、背中を頼めるかな」  無乃は当然、羅冴流が洗うのを手伝ってくれるのだと疑いもしなかった。項を掻き分け、衣を前掛けのようにして体にかけると、臀部へと貫く美しい背筋を晒す。なので彼が、一笑の後に床の衣服を拾い、そして無乃が大事におさえている上衣さえ取り上げようとするのに驚いた。 「あ――これは駄目だ」  慌てて体を避けて衣を掻き抱く。さりげなく腕を押さえてハッとして羅冴流を仰ぎ見た。気づかれたか? しかし当の本人はどこか視線を斜に落とし、耳の先まで赤くなっている。無乃はまるきり思い過ごしをして、さらに羅冴流の赤面に不意打ちを食らった。 「羅冴流、やめてくれ、私まで……」  露わになった白い太股か、それとも黒い髪に包まれた肌の香りか。羅冴流の不機嫌にも見える困惑顔に無乃もつられて頬が熱くなっていた。 「泥を、落としてくる」  優しい声色の羅冴流に、無乃は頷くので精一杯だった。下手に答えて声が裏返るのは避けたかったのだが、羅冴流が背を向けたとき、無乃の心の中にひょっこりと悪戯の目が出て、一気に顔の力が抜けた。  慌てて咳払いをする。 「羅冴流――」  深刻そうに呼び止めて羅冴流を招き寄せた。 「なに?」  耳元で囁く羅冴流に、無乃は「ううん」と唸った。 「しかし、私は思うんだけれど、それを洗ってしまったら、乾くまで私は一体何を着ればいいんだい?」  と、少し悪戯っぽい目で羅冴流を見上げる。すると羅冴流はにっこりと微笑んだ。 「俺のを着ればいい」 「君はその間、何を着るつもりかな」 「かわいそうだと思うなら、君が善意を見せればいい」  無乃はにこりとしながら思いも寄らない返答に気が引けていた。  強気な口調なだけあって赤面はすっかり引いて、そこには挑発的な羅冴流の目だけがあった。 「外で待っている」 「濡れるよ、中にいればいい」  羅冴流が何もいわずに外へ出て行ってしまったので、無乃はほっと胸をなで下ろしながらも苦笑した。 「羅冴流、そこにいるのかな?」  もう離れてしまっただろうか。  湯船の中で両手を握りしめて、返答を刻一刻と待ち遠しく思っていたところに、長い沈黙があってから羅冴流が答えた。 「なに? してほしいことでもあるなら、言うと良い」  今度は無乃が困った。「そうだね……」と悩みながら、 「……羅冴流、ただ、そこにいてほしいんだ」  あっさりと言い退けてしまうと、羅冴流は言葉を詰まらせたらしい。  浴室の戸を一枚隔てた向こうに、羅冴流の体温を感じる。体を漱ぐ水音の一つ一つに耳を傾け、小さな水滴の粒を、羅冴流も同じように手に絡めているのだろうか。しめやかな息を思わず吐けば、浴室の温度さえ高くなるようだった。  無乃は土で軋んだ髪を梳きながら、おっとりといった。 「……羅冴流、男女の死体が見つかった。一人は生きている。けれど君はそれを知らないはず。暢達を引きずってきたのは、なんのためかな」

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