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古月をくだく(八)
「崖柏木 と呼ばれるヒノキがある」
険阻な山の絶壁に生える香りの良い木で、流れるような風紋を象 る。過酷な生育環境でしか生えず、香りが豊かであることから薬の原料ともなり、特徴的な雀眼模様は縁起物として希少価値が高い。
山の奥深くの限られた断崖にだけ自生する貴重な木だが、無乃は実物をたった一度しか見たことがなかった。それも城内に持ち運ばれるのはほとんどが薬や香木として手の加えられたものだったためだ。
先代の君主が盛んに伐採させたせいで崖柏木は根さえ全て刈りつくしたと聞いていた。
「その崖柏木のことなら、私のほうが詳しいだろうね……」
貴重な木が、幻の木とまで言われるようになったのはほかでもない、無乃の病弱な幼少時代のせいなのだから。
耳が痛いやら居心地が悪いやらと無乃は項垂れる。
「国中どこを探してもないはずだよ」
切り倒した甲斐があったかと聞かれると、それもわからない。病の原因はほとんどが妾腹の子や親族の嫉妬といがみによるもので、病弱だと触れ回っていたのはその毒にあてられたためでもあった。果たして先代の君主が無乃のために崖柏木をかき集めたのは、薬のためというよりは雀眼模様のご利益を賜ろうとした方が正しいだろう。
「生き残った株があったらしい」
羅冴流 の口元に微笑が過るような声だ。無乃は優しい彼の声遣いに自然と笑みが浮かんでいた。
「見間違いだろう。流通している崖柏木は全て偽物だ。もし本物があるなら、それこそ一国を買えてしまえるよ」
「だからだよ。暢達 が血眼で探しているのはそのため」
「……うん?」
冗談で言ったつもりが、まさか当を得ていたらしい。
「もしかして、暢達は国を買うつもりなのか?」
馬鹿らしいと思いつつもそれ以外にこの山に入る理由がない。
国など手に入ったところで暢達ごときに扱えるはずもなし。風格も威風も全く備わっていない男が一国の長になったところで、民草は枯れ果てるだけだろう。
「夜な夜な山に入っていく理由は、崖柏木が理由だろう。前王朝だろうと王家の人間が傍に居れば、発言力は雲泥ほどの差がある。それに、奇秀 はどうやら、女らしいね、無乃」
暢達が山から自分たちを遠ざけたかったのは、たったの、木を独り占めするということのためだと羅冴流はいう。
それよりも無乃は丁寧に呼びかけられたことにびくりとした。
「そうだよ、奇秀は女性だ。でなければ羅将軍のところに下賜されるはずがない」
驚きを押し隠し、いつものようにゆったりと微笑んでいう。羅冴流はするとそれきりぴたりと口をつぐんでしまった。ややあってから、大きなため息と共に声を落として言い放つ。
「君がますます憎いよ」
はたと、息が止まった。思いがけず胸の中がえぐられるような痛みである。
憎い……?
羅将軍に下賜されたという言い方が、まずかっただろうか。今まで憎まれてはいないつもりだったが、これでとうとう、羅冴流の心は離れてしまったのか。
そう思うと心の奥に熱いものが込み上げてくるようだった。
女性を手にかけたあくどさについて詰っているのだと、無乃は努めて声を張り上げる。
「君の言うとおり、私は血も涙もない。こんな悪人は生かしておけないだろう?」
「君が何を望んでいるのかは分からないが、思い通りになると思うなよ」
「思い通りだなんて、まるで私が何か、企んでいるような言い方をするね」
「無乃、なぜ自分の身をそれほど簡単に私に……」
明け渡そうとするのか――と、羅冴流は高ぶりそうになり、きつく唇を噛みしめたようだった。
いくら悪人であろうと死が恐ろしくないはずがない。それなのにどうして刃に自ら白い首を宛がうような真似をするのだろうか。それが、羅冴流が復讐を躊躇わせる要因の一つでもあった。
最も羅冴流を困惑させているのは、本懐を遂げてしまった後の、胸を掻きむしるであろうほどの虚無感を、羅冴流自身も予期していることである。ほの暗い復讐心、その礎 に打ち込まれた拭えない惨憺たる悲痛が、宿命を果たした末、どれほど恐ろしく猛狂ってしまうかという予感が脳裏にちらついて、どうしても離れない。
復讐心と慕情、激しい怒りに身が焦がれ、この数日間、どうにかなってしまいそうな思いだった。
なぜこれほどややこしいことになったのかわからない。それなのに浴室の佳人は穏やかな口調で、おっとりと、自分をさっさと討ち取れというのだから憎い。
「……いっそのこと、二人で……」
手を結んで離さず、共に刃に倒れて君と一緒に黄泉を歩みたい。再び出会えるのならどれほどの月日がかかろうと輪廻を待てる――
「……奇秀、」
この、たった薄い一枚の戸を隔てて漏れ聞こえてくる、身のよじれるほどの切ない声を、無乃は冷たく滴り落ちる雫の音の間に聞いていた。
時間が経てば経つほど、彼の奇秀への思いは深くなっていくらしい。かつて一度膿を吸っただけの人間にどうしてそこまで思いを寄せられるのだろう。君と言葉を交わせる無乃という人間では、奇秀のかわりにもなれないのだろうか。
「奇秀はもう、いないと言ったのに……」
君が奇秀を求めることが、こんなにも締め付けられる思いだとは知らなかった。友情など望めるはずがない。それが復讐であろうとも、君が私を見てくれるというのなら、どんなに醜い感情だって構わない――
遠ざかる雨の音、湖上に紫電を走らせる遠雷。揺らめく月影はしっとりと残雨に濡れて、枯れ木にかかる月明かりの優しさがひどく寂しかった。
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