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古月をくだく(九)
空は明けかかり、雲は杏色に染まっている。匂やかな朝が未だかつてこれほど美しいと思ったことがあっただろうか。
一睡もできずに朝を迎えてしまった無乃 は、頭を揺らしてくたりと笑った。
「睡眠は健康の第一歩だというのに」
つくづく脆弱な体は疲弊して、夜通しの重労働にすっかりくたびれている。手間をかけさせた人物は気を失うとそのままぐっすりと眠ってしまい、今も目の前で大口を開けて眠りこけていた。
――昨晩のことだ。
雲は遠ざかって外は水を打ったような静けさだった。風が微かにこずえを揺らすばかり。その爽やかな風色に、湯中りした無乃はふらりと外へ出て、体の熱を冴えた月露の滴りに涼ませていた。
ふと、その戸口の端に何かあるのに気がついた。
よく見ると衣類らしい。それもどことなく羅冴流 のものと似ている。手に取ってみると、やはり襟のあたりに固い樹皮の香りが漂っていた。清廉な青樹、羅冴流の肌を這う、彼の香り。体の輪郭を残した衣服にはほのかな人の温もりがまだ微かに感じられた。
「落としていったのかな……」
柔らかな手触りを、無乃は少し、彼の無防備な体をなぞるように優しくふれる。無乃はまだ上衣だけを肩に引っかけていて、しなやかな肢体は月明かりに暴かれていた。
ひと刹那、「あ、私のためか」と耳の先が熱くなってゆく。
着るべきか、それとも彼のために善意をつくしに行くべきかと持て余してしまい、結局濡れている桜灰色の服を枝先からそぎ取って、いそいそと着込んだ。
無乃はそのまま浮かれるように月夜の美しさにうっとりした。後で羅冴流を呼んで来ようと一人座りこんでいると、もう少しで暖かな夢の中に落ちるはずだった。その矢先に、
ざり、ざり……
と、不可解な音に目が覚める。
建物の中にいる羅冴流と施敗 には聞こえていないらしい。
さすがに飛び起きて音のする方を探していると、どうやら裏手から聞こえてくるようだ。少しずつ距離を縮めていくと、どうやら男女の死体を埋めたところから音がする。
施敗の掘った穴は広くて快適そうに思えたが、まさか不便なことでもあって文句を言いに出てきたのでは無いかと、無乃は眉をひそめていた。
もし、死体が動いていたら、どうしてしまおうか。
埋め戻してしまうか? 無乃が目印に立てておいた木の枝は不自然に倒れ、近づくにつれて墓はなんと、再びぽっかりと空洞を見せて、すっかり夜闇を呑み込んでいた。
しかも中にいるのは土気色の女だけ。
あれ、最初に目を覚ましたのは、こっちの女性だったはず……
びっしょりと濡れた白い顔が、泥と枯れ葉に汚れていた。おかしいなと穴の中を覗き込んだとき、
「この……! 俺を殺そうとした!」
と恨みの深い声が突如として背中に降りかかる。無乃は振り向く間もなく突き飛ばされ、穴の中に落ちていった。
直後には男が上にのしかかり、首を絞めて激しく殴りつけるので、すったもんだと押し合っているところに、「窒息させるつもりは、無かったよ、だから木の枝を刺したんだよ」
と言い訳を口にしてなだめようとし、男の上顎を申し訳ないと思いながらも強かに拳を振り上げた。
確かな感触と共に、あっ、と仰向けに倒れていく男を見届けて息を吐く。
「困った、まさかこんな結末になるとは……」
再び目を覚まして殴りかかってこられても困る。羅冴流の衣服を縄代わりにして縛り上げているうちに日が昇り始めてしまったのだ。
「無老大 ! どこにいるんだ? 老大!」
たっぷりと休息を終えたらしい施敗が慌てて転げ出てきた。這うように駆けつけてきた彼が鬱蒼とした木々の間から墓穴に落ちた無乃を見つけた。まさか一夜をそこで過ごしたのだと早とちりをして、やはりどこか病を患っているのではと焦りの色を浮かべる。
「違うよ、私はまともだからね」
「なんでもいい、来てくれ!」
施敗はのんびりとした無乃につられて気が緩みかけるが、それどころではない。失神している男をとりあえず抱え上げ、来てくれというよりは、無乃を小脇に抱えて強制的に連行していく。墓穴を飛び出し駆け出した。
「なぜ焦っている? 羅冴流はどうした?」
「それが、なぜかぐっすりと眠ってしまったもんで、今さっき目が覚めたんだが、羅の兄さんはとっくに目が覚めていたらしく――」
と、要領を得ない。
何度かやり取りをするが、施敗はやはり「羅の兄さんが……」と躊躇った。
無乃が部屋にたどり着いたとき、目についたのは血まみれの羅冴流と、その傍でぐったりと横たわっている暢達 だった。
「――!」
施敗は暢達の蘇生を頼むつもりだったらしい。しかし床に降り立つ無乃は思わず息を呑み、暢達よりは羅冴流の方に駆けつけた。ぼんやりとした目は暢達に向けられて逸らされることがなく、生気を失っている様子に一瞬呆気にとられる。
「君、どこか痛むのか……?」
無乃は背筋が凍てついていた。
腕をとり、腰を探り、腹のあたりをまさぐっていると、羅冴流が擽ったそうにふっと息を吐き出し、無乃の肩をどこか危なっかしく掴む。
「なぜ――?」
「なぜって?」
無乃は驚く。
「俺が暢達を殺したと、なぜ思わない?」
無乃は重ねて問われても気が動転していて、羅冴流の怪我の有無を確認し続けていた。
施敗が部屋の入り口に佇んだまま、無乃を羅冴流から引き剥がそうかどうかと悩んでいるようだった。
「……生きて連れてきたのに、殺す必要があるか? 応急処置をしようとしたのだろう。だがその様子では、おそらく遅かったみたいだね」
「……呪いは?」
と今度は羅冴流の肝が冷えている。
無乃は戸惑った。親指の傷はまだ腫れたままで、療養泉の効果は未だに見られない。
両手をにぎり込みながら無乃は微笑んだ。
「すっかり良くなったよ」
「暢達を、君と間違えたらしい」
そういうと、羅冴流は暢達の襟を掴み、容赦なく衣服を剥ぎ取った。
背中に書き付けられた傷痕は短剣で刻まれていた。無乃の死を望む一文の他に、羅冴流が衣服を剥ぎ取って初めて、彼の指が一つ残らず切り落とされているのを知った。
無二 ――あの子猫が指を食べてしまったから、新しいものが必要になった?
ふと、そんな恐ろしい勘が働いていた。
「……私と彼を、間違えたわけではないだろう」
この手口に、無乃は覚えがあった。
徐明 ……何が望みなのだろう。
「愛した人を殺した憎い相手」
と徐明は言った。一体誰を殺したというのだろうか。
それに直接無乃に手をかけられるほど近くにいたのに、なぜ無関係の暢達を殺し、指を切り落としたのだろう。しかも呪いだと言って死に際の猶予を与えているのはなぜ?
胸騒ぎのするような不快感――
「崖柏木 のせいか?」
施敗が困惑しきった顔で口走ったので、無乃は優しく微笑みかけた。
「どうかな……」
すると、施敗の肩に担がれた男がぱっちりと目を覚ます。彼の目の前には暢達の凄惨な最期があった。彼は混乱と怒りにカッと顔を赤らめ、その憤然と燃え上がる感情のままに目尻をつり上げた。施敗に掴みかかろうとするので無乃は息を吐く。
「施敗、彼を床へ置いてくれるかな」
言われたとおり施敗は絡みついて食ってかかる男を下ろす。と、声にならない叫び声を上げ、縛り上げられた体を芋虫のようにうねらせて無乃に這い寄った。
「殺したのか――! なぜ殺した! 悪主座、無乃!」
その怒号に無乃はやんわりと頭を振った。男の目の前に膝を下ろし、怒り狂うその口に何をするかと思えば、自分の腕をガッと噛ませて黙らせたのだ。
「君と、会話をしたいんだ。難しいことか?」
「うう、ううう……!」
血走った目で無乃を睨む男が、腕の骨さえ噛みちぎらんばかりに力をこめる。無乃はそれを冷たく見おろした。
「黙れ。君が女性を殺したのか?」
「うう!」
無乃はそれを応だと捉えた。
すると、背後で羅冴流の剣を抜く音がする。鞘から現れるすらりとした白刃を目にすると、男はさっと青ざめて頭を振った。
「違うのか?」
こくりと慎重に頷く。
無乃は、
「なら、暢達が殺したのか?」
と聞くと、男は頭を振った。
「誰が君たちに毒を盛った?」
その問いかけをする頃には彼もようやく素直に答える気になったようで、無乃は噛ませていた腕を引きずり出した。
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