58 / 65

(閑話休題・無乃と万紅雪の幼少期) 星河燦々と 一

 腹の上の子は、ぼぅっと浮かぶような朱色の頬をして、優しい手つきで奇秀(チーシウ)の髪を触っている。  たった一つしか年の違わない、もしくは数ヶ月のはずだが、小柄な少年だった。奇秀は彼を転児(チョワンアル)と親しんでいた。よく庭や廊下に転がっている子だから、転児。 「こら、墨を触った手で……」  慌てて引き剥がそうとするのは、城から連れてきた老いた侍女で、転児を目の敵にしている。  転児がぷらぷらと近づいてくるや否や、要塞並みの警戒を敷いて奇秀との接触をどうにか阻もうとした。  いかにも野生児で手のつかないやんちゃ小僧であり、奇秀に対しても無遠慮にものをいう。今も手習いが飽きて腹の上に跨がると、墨だらけの手でペタペタと顔や衣服を触っていた。  突如押し倒したこの少年が、奇秀には新鮮に映った。 「構わない、彼の好きに、させてあげて」  奇秀は横たわったまま転児にされるままだった。  城内なら、例え相手が十にも満たない子どもであろうと無礼な態度は容赦なく腕を切り落とされていたはず。城を離れたとは言え奇秀は王家の長男で、やがて玉座に据えられるべき正当の皇子。それが涎と墨まみれの小汚い子どもに身を許すなんて、侍女は涙が込み上げるやら悔しいやらと腸は煮えくり返っているのだった。しかし大切に育ててきた牡丹や春薔薇が手折られるのを案じ、見守る目つきはそわそわと落ち着きがない。 「女みたいだ」  転児は全く、侍女の恨みがましく棘の含んだ視線など気にもせず、奇秀の顔を撫で、額の生え際を嗅いでいる。 「そうだろう」  奇秀は自慢げに答えるが、転児の鼻息が顔にかかって擽ったかった。転児は奇秀が「ふふ」と白い歯を零すと、なお面白がって、花片の様な唇をとがらせ、もたつきながらもふうっと息を吹きかけた。 「首魁と、結婚したのか?」 「そうだよ」  転児はふうんと興味もなさそうに鼻を鳴らす。 「それなら、あんたはおれの、お母さんになるんだ?」  あやうくそうだよ、と即答しかけて戸惑う。 「……お母さんが、欲しいかい?」  転児は奇秀の唇を何度か弄んだあと、ごろりと隣に寝転んだ。 「別に、いらない」 「私が来て、驚いただろう。もう少し年が上なら、君にお姉さんらしいこともできたはずだが」 「同年輩の子は、おれに遠慮してるから。あんたで十分だよ」 「そうだね。君は猿なみに暴れるから」  ふひひ、と怪しく笑う転児が愛らしい顔を奇秀に向けた。  奇秀はその嬉しそうな笑顔をぼんやりと見つめて、転児の口元をそっとなぞる。 「良い顔をするんだね」 「あんたは、あんまり笑わないよな」  緩みきった顔で転児がひょいと体を上げる。汚した墨や硯をそのままにして、窓から突然飛び出していった。その身軽さに奇秀は目を瞬いた。  転児の無邪気な笑顔とあの自由な体が、一瞬、気の遠くなるほど羨ましかった。  羽の生えたような白い腕。心の底からわき出すような自然な笑顔。どうかそのまま、美しく気高い鶴のように、のびのびと成長してほしい。この芳鎮(ほうちん)の地で――  鎮兵の置かれたこの芳鎮には湖沼が多い。湿気があって、そのじめっとした空気に奇秀の髪は少しうねっている。初夏の陽はそんなしとった空気を漉してどこかやわらかい。  奇秀はここをすぐに離れられると思っていた。生まれたばかりの妹が、兄を覚えていないなんてことがあってはあまりにも寂しい。  烽火の絶えない城のある方をぼんやりと眺めていると、廊下の奥が騒がしくなった。  激しい足音と言い争う声が近づいてくる。何かあったのだろうかと体を起こした奇秀は、目の前で叩き割るように扉をあけた人物に飛び上がった。 「……と、おや、奇秀さま、あの子はこちらにいらしているかな?」  形相を歪め、怒鳴りつけようと息を吸い込んだ羅石英(ルオシーイン)が、部屋の中で目を白黒させる奇秀に気づくと、ハッと我に返って清らかな顔を取り戻した。  軍港の将でありながら翠致幇の首魁の彼が、実際は穏やかな口調で話すなんて、会うまで奇秀も知らなかった。  奇秀は微笑んで頭を振った。 「いいえ、見ていません」  転児(チョワンアル)が直前、慌てて出て行ったのはこの羅石英の殺気を察したためだったらしい。澄ました顔で衣服を整える奇秀の前に、羅石英は口角を上げてにこにこと近づいた。 「来たみたいだね」  突然、奇秀の頬が冷たい手につねられていた。「まあ!」と侍女が大声を出して駆け寄るのを、羅石英が眼差しで制する。剣よりも鋭いその眼光に睨まれ、侍女はふるふると体を震わせて青ざめていた。羅石英は息を吐く。 「顔に墨がついている。服にもだ。小児(シャオアル)以外に誰があなたを汚すかな? ひどいね彼も。汚すだけ汚して置いて逃げてしまうなんて」 「いいえ、来ていません」  奇秀は図星を突かれてひくりと眉を動かしながらも言い切った。 「君が叱られるのを見て、小児は飛んでくるかな」 「決して飛んできません」 「困ったね。随分頑固じゃないか」  羅石英は目を細めて微笑んでいたが、眉間には深い皺が刻まれている。 「私に隠し事をして嘘を吐いた罰だ。小児を探して、私の前に突き出しなさい」 「……転児は何をしでかしたのですか?」  優しい羅石英を怒らせるのは転児くらいなのだが、今回は尋常ではなく、止める人間を引きずって現れたので奇秀は恐る恐るたずねていた。 「約束を書かせた紙を食べたんだよ」  転児は山羊なのだろうか。  ころんと後ろにひっくり返る奇秀は、転児の破天荒さに面食らっていた。 「もう、野生に返してしまおうか」  羅石英は足を投げ出して椅子に座ると、頬杖を突いて俄に呟いた。  奇秀はまたもや目を瞠って首を振る。 「いやか?」  羅石英の疲れ切った顔に奇秀は戸惑った。 「ですがね、あなたが連れてこないと彼を野生に返すしかなくなってしまうよ。今なら私がどうにか君の爪の垢を飲ませてしつけをしてやれるが、それさえかなわないとなると……」  大きくたっぷりと憂鬱な息を吐く羅石英。  奇秀は痩せ細った転児がご飯をくすねている姿を想像して青ざめた。 「探してきます」  すっくと立ち上がる奇秀をみて、羅石英はぱっと表情をやわらげた。 「待ちなさい、珍しい三本角の牛肉をもらってきたので、小児を釣る餌として持って行きなさい」 「はい、では……」  奇秀はほとんど彼の言葉も上の空で、急いで部屋を飛び出した。羅石英が愛想を尽かしてしまう前に、どうにか転児の心を入れ替えさせなければと思うのだった。

ともだちにシェアしよう!