60 / 65
太師青に降す(一)
秋夜。
月影は清らかだった。
家々の灯りはとうに消え、煙りが一つ、森閑とした通りを波の様に流れていく。古刹 が奉じる檀香 の香りで、それが古びた町にしみこんで槿花 の紅さえ厳かだった。雨露 の匂いを含んだその独特な香りを袖にひく彼が、覚束ない足取りで暗がりから歩いてくる。
どこもすでに門は固く閉じていた。
滴りが地に垂れて道に一本の線を描くようだった。重たげに傾く肩の先に剣を握り、耳障りな音を立てて静かな町に残していく。
月の白さに、傷が痛みを増していた。
どうやら骨にまで達する傷がある。慣れないことをした所為だと彼は思っていた。ほつれかけた包帯をおさえ、体を壁にこすりつけながら先を急ぐ。
背骨は恐怖と憎悪に貫かれて痛い。
この暗がりが恐ろしい。
早く――
早く戻らなければ――
月は真上に輝いている。真新しい血糊に、刃は滑らかに光っていた。
――――――
「しゅ……、しゅぅ……、」
無乃 の、寝息だと羅冴流 は気に留めていなかった。
施敗 に麓の町まで舟で運んでもらった後、間食を二人で分け合いながら、賑やかな通りを歩いていたときだった。
小さな町で、端から端を捲るのに一日もかからず、道はそのまま古い松林の金古道 に入る。
赤山金水 の古都に通じる古丘街道 で、無乃は一旦、翠花百雷 に行くのを後回しにし、羅冴流の報酬を稼ぐために遠回りしていた。町に下りさえすれば多少は稼げると思っていたのだが、鳥の古巣を売り歩いても見向きもされず、壺の中に三面六臂の屁を封じたご利益があると触れ回っても結果は同じであった。そうしているうちにそろそろ町の出口が見えてくる。
そんなときに、しゅ、しゅぅ、という興味深い音である。
穏やかな町の賑わいを縫って聞こえてくるこの音を、無乃は餅を蒸している音だと思った。
けれど町影が少しずつ寂しくなっていくに従って、音はすぐ真後ろで聞こえてくるので、いよいよおかしいと気づく。
「この音はなんだろうね?」
空気の抜けるような弱々しい音。無乃は立ち止まり、視力のない片眼を庇うように頭を大きく動かす。
すると涼しげな羅冴流が少し先を進んだところで足を止めた。
「気にしない方が良い」
答える羅冴流の口調は変わらず爽やかで顔色に変わったところはない。独り言のつもりで呟いたから、無乃はそんな彼の返答に自然と微笑がこぼれた。
施敗と別れてから二人の間は沈黙が重く、急に秋らしくなった景色に肌はどことなく寒い感じがしていた。
あれきり視線は合わなくなった。ちらりと見上げた横顔は乾いているようにも見える。それがふとした拍子に自分に向けられるのを恐れて、無乃が避けているためだった。
「羅冴流……、君は、気にならないのか?」
なぜこれほどやり取り一つ一つに緊張感を伴うのか無乃にはわからない。彼の返答に一瞬の間があると、重大な告白を待つように胸は騒いで両手は痛いほどきつく握っている。
少し前まで、沈黙がこれほど怖いと思ったことはなかったのに。
「……羅冴流、」
「無乃、後ろに」
慌てて呼びかけたとき、そこに羅冴流の声が重なった。
「後ろ?」
「君を呼びたそうにしている」
無乃は咄嗟に肩口を振り返る。するとその真ん前であった。両手を開いたり閉じたり、苦々しい口元をパクパクと動かしてどうやらばつが悪そうな人物が立っているのである。その彼が、「しゅ、しゅ……」とあの音を口にしている。
「どこから聞こえてくるのかと思ったら……」
どうりですぐ真後ろから聞こえてくるわけだ。
控えめな顔立ちをした撫で肩の男だ。荷物を体に括り付けている彼に、無乃は見覚えがあるような気がしてふとその顔を見つめていた。男は何も言わなかった。
知らない相手だと思い踵を返そうとして、やはりどうにもそのおどおどとした姿が気になった。ぼやけるような目鼻立ちに目を凝らしていると、無乃は途端にあ、この顔はやはり知っている、と記憶が鮮明に蘇ってくる。
「縦牛安 だ」
牛と名がつく力強さに反して柔な印象を抱かせる男。名前をあてられた彼はびくりと身を縮め、くるっと方向を変えて人混みの方へ歩いて行こうとする。
「待ってくれ、縦牛安!」
無乃は積もる話を語って聞かせたいほど縦牛安と親しかったわけではない。他のところですれ違っていたらきっと気づかなかった。それほどに印象の薄い男で思い入れもないのだが、無乃はこのとき慌てて縦牛安を引き留めた。
「どうして君がここに……いや、」
「――今までどうやって過ごしていたのかな」
「――あれきり門徒たちはどうしている?」
無乃は三つほど、返答の間も与えず縦牛安に笑顔で詰め寄った。この全く親しくない門弟をやや強引に引き留めたのには、羅冴流との気まずい空気を避けたい思いが働いたのだが、無乃は気づいていなかった。
ゆったりとした口調と柔らかな微笑に、縦牛安の顔色も幾ばくか暖かくなっている。
「その話し方、それに声……あなたはやはり私たちの、しゅ、主座、なんですね。……主座、ずっと、声をかけようと思い、しかしあなただと自信が持てず……」
憂鬱そうに俯くこの男を羅冴流は知っていた。
飛銀党との騒動の最中、店の奥で幽霊のように気配を消し、無乃の後を着いてこようとして、すかさず目の前で扉を閉めた、あの人物だった。
途中で気配が途切れたために枯れ葉に足をとられて滑落したのだと思っていた。そんな彼が今更無乃にどんな用があるというのか。羅冴流は試すように目を細める。
「主座だった男の顔を忘れる? 贅沢だな」
自分たちの手で追いやった主座をどうしたら忘れられるのか。羅冴流は無乃の背後で冷笑していた。
「ああ、それはね、この醜い刺青と、目の色が少し濁っているのを、当時は人に知られるのが何より嫌で……だから誰もいない晩景門に隠れ住んでいたのだけれどね」
羅冴流をなだめるように優しく言ってから、無乃はむず痒さに襲われた。目元のほくろを撫でつつ困った顔で微笑んでいた。
おかげで、子弟間に亀裂が入っていることに無乃は気づかなかった。足元で何が起こっているのかもわからず、何も知らずに毎日窓の外の花壇ばかり眺めていただけだった。
ともだちにシェアしよう!

