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太師青に降す(二)
「ところで、縦牛安 」
無乃 は一転、縦牛安の両手を真剣な顔で握りしめた。
澄んだ瞳を真っ直ぐ縦牛安にそそぐ無乃に、全てを見透かされているようで縦牛安は気が気でない。その蜂蜜のように甘い声で痛いところを鋭く突かれてしまうのではないかとハッと身構えた。
「鳥の古巣や三面六臂の屁を売ってみても、おやつが一食ようやく買える程度しか稼げない。あそこにいる用心棒にお給金も払えず解雇もできなくて困っているんだ」
無乃は額をおさえてくらりと健気に息を吐く。一人だけならまだ夜露で喉を潤し、木の根を囓って飢えをしのげるが、羅冴流 を連れて歩くとなるとそんな真似をさせるわけにもいかない。
縦牛安 もそれとなく困窮している様子を察し、確かにあれは腕の立ちそうな用心棒で、一日を雇うのも大変だろうと納得していた。
そんな縦牛安の身なりは無乃よりはるかに良い。同じように門派を出奔していたはずの縦牛安に、なぜこうも差があるのだろうと、無乃は探るつもりでさらに一歩近づいた。
「君は見たところ、私より路銀に困っていなそうだ」
「それは勿論です。主座の教えを忠実に守ってきましたから」
優等生らしく胸を張る縦牛安の顔に無乃は輝くものを見ていた。
「そうか、私の教えを、守っていたのか」
しかし教えとは一体、何を教えただろうかと無乃は不思議である。
縦牛安 はどちらかというと世間知らずな若者だった。無乃が彼に教えたのはたった一つだけで、それは体を清潔に保つこと。それだけだった。それきり奥に入って伝言は全て星夕 や他の門弟に任せていたから、彼らが普段何について無乃から学ぼうとしているのかなど知りもしない。宿泊の許可を出した覚えもないのに、敷地にはやがて大きな宿舎が建ち、執務のための豪華な堂塔が建った。すべて主座の命令だというらしい。
無乃は一体主座とはどんなに偉いやつなのかと頭が痛かった。
「私にもその教えを授かりたいものだ……」
遠い目をする無乃に縦牛安 は戸惑った。何を言っているのか理解できず「え?」と首をかしげる。すっかり返事に困ってどもっていると、無乃がまた何かおかしなことを言い出してしまう気がして、とりあえず話しをもとに戻すことにした。
「主座の門下だと名乗っています。晩景門の宣伝にもなりますから」
無乃はその真面目な答えに驚きつつ呆れつつ、「ほう……」とため息をもらす。晩景門はよほど教育熱心らしいと他人事さながらに無乃は思う。
「もしお金に困っているのでしたら、その指輪を売ってはどうですか」
支払いに困っているといいう無乃に、何の気なしに親指を目で指図した。
まさか持ち物を売るという選択肢を無乃は最初から持っていなかった。縦牛安の怪訝な目線から傷の癒えていない親指をさりげなく後ろに隠す。
「……これを売ると、大変なことになってしまうんだよ。来世もまた、彼のために大金を稼ぐことになり、汗水垂らし、苦労してしまう」
縦牛安 は無乃の困った声を聞くと心得た様子だ。
「それなら良いところへお連れしましょうか。縁を切れる大変ありがたい法師を知っています。そうすれば指輪を売っても問題ないでしょう」
無乃はそれを聞いて今度はあたふたとする羽目になる。心の中で言い訳を探しつつ、縦牛安の優しさには美しい笑みをふわりと浮かべて答える。
「無理矢理縁を切れば、私の人生にどのような悪影響が及ぶかわかったものではない。絡まったものはそのうち自然にほつれる。強引に事をなせば余計にこじれるだけで、それは本来の姿ではないのだよ」
縦牛安 は今、思わず無乃を見かけて後をつけ、声をかけてしまったことに少し後悔を覚えはじめていた。この、聞こえの良い言葉に煙に巻かれるのは昔とかわらない。彼とのよく分からない会話に悩むのも同じである。
ただ一つだけ、とくに縦牛安 の心を今も苦しめるのは、無乃が追い出された直後のことだ。誰一人として主座を追いかけた人はいなかった。自分を含めて彼の背中を黙って見ているだけ。罪悪感と、申し訳なさである。
山や谷をめぐって旅をしていた縦牛安 は、ある事態を聞きつけて戻ってきたのだが、無乃の暢気さを前にすっかりそんなことも忘れて、これほどのんびりした人だっただろうかと頻繁に首をかしげた。
とにもかくにも、因縁の浅からぬ指輪を持ちながら扱いをこまねいている無乃に、縦牛安 は呆れていた。
「主座……そういうところが、厄介事を集める原因では……?」
「縦牛安 、世間にでて苦労でもしたようだね」
無乃は白らかな縦牛安の視線に苦く笑う。
三人はゆっくりと町から離れ、金古道に入っていく。
白砂の道が緑に烟る松林の中をひたと走る。縦牛安は荷物を重たげに背負い直して考え込んでいたが、やがて思い出したように口をひらいた。
「主座、もしお金が必要なら、金古道の先に青古墟 という町があります。そこへ行ってみるといいかもしれません」
「おや、何かあるのかな?」
「月下評という品評会が行われます。それぞれ月を持ち寄って、参加者の中から評価の高いものを選び、得点が高い者には自氏の自悲秋 から金百両の報奨金が与えられるそうです」
「金百両……!」
無乃はまさしくそれだと目を輝かせる。
美しい月さえ用意できれば、金百両が手に入る。
「早速向かおう。君も青古墟へ行くのかな」
「いえ、私は……」
そろそろ別れます。と言おうとして、ようやく彼は自分の役目を思い出した。
「しゅ、主座! 忘れる所でした!」
「何を忘れたのかな。私が取ってこようか」
「違いますよ、主座!」
本当に道を引き返そうとする無乃に縦牛安 は慌てて押しとどめる。
喉に詰まった息を呑み込み、無乃の足元に膝をついた。
「喬大雀 が、あなたを討とうとしているのをご存じですか?」
無乃は「ああ、知っているよ」と優しく微笑む。縦牛安の肩をぽんと一つ叩いた。
「一門の残党も探しているらしいね。君もこの辺りでは門人を名乗るのは止した方が良い」
無乃はそれだけ言うと縦牛安 を立たせ、自分はすでに歩き始めていた。
「君の成功を祈っているよ」
背を叩き、ほら、行ってしまえ、と無乃は彼を送り出す。縦牛安の足は中々重いらしい。いつまでも悲しそうな顔をして分かれ道で立ち尽くす彼に、無乃は困りはてた。
「私たちは急ぐからね」
無乃は遠くから呼びかけて羅冴流を連れて離れていった。
「主座、星夕を……師兄のことを、信じないでください……」
縦牛安 の姿がすっかり小さくなって見えなくなる頃、縦牛安の心細く呟く声が、ささやかな秋風にのって運ばれてきた。
無乃はにこにこしつつ頷いて、「またどこかで会えたら良いね」と手を振る。
その縦牛安 の遺体が、古丘街道の茨の中でまっ白になって蹲り、一部を獣が食いちぎって町まで運んだのは、さらに数日経った、秋晴れの日のことだった。
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