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伝説の巫女④

 凪が花嫁に志願してから、慌ただしく時は過ぎていった。  我が子が湯玄の花嫁に決まったことを知った母親は、泣き崩れてしまう。まさか、男の凪が花嫁に選ばれるなんて夢にも思っていなかったのだろう。 「母さん、俺は大丈夫だよ」 「凪、凪……」  細い肩を揺らしながら泣く母親をそっと抱き締める。祖母は「立派に役目を果たしておくれ」と目にたくさんの涙を浮かべながら笑った。  もしかして、自分はとんでもない親不孝をしてしまったのではないか……そう思えば心が引き裂かれるように痛む。それでも湯花神社に足を運べば、どうしてももう一度湯玄に会いたいと思ってしまうのだ。  この世のものとは思えないあの美しい姿を、もう一度見たい。日に日にその思いは強くなっていく。  神社の本殿を覗き込んでも、そこに巫女の姿はない。凪の心に何とも言えない寂しさが押し寄せた。  凪が花嫁になる準備、とは……凪が女性になる準備でもあった。慌ただしく白無垢が作られているようで、体の隅から隅まで採寸される。凪は、男である自分が花嫁衣裳を着ることが恥ずかしくて、顔を上げることさえできなかった。  そして、凪が一番肝を抜かれたのは夜の営みの勉強だった。湯滝村にある遊郭に招かれ、凪は一番立派な客室へと連れて行かれる。そこで一番人気があると言われている遊女から、床入りの方法や、男を喜ばせる方法などを教えられたのだ。  遊女に押し倒された凪は恥ずかしさのあまり、顔から湯気が出そうになる。部屋中に充満したお香の香りに、艶めかしく微笑む遊女を目の前に、凪は全身の血液が沸騰してしまったのではないか? というくらいの興奮を覚えた。 「いいかい? これから男に抱かれる作法を教えるからね」 「男に、抱かれる……?」 「当り前だろう? あんたは湯玄様のお嫁さんになるんだから。男の腕の中で可愛く乱れる方法を、きちんと学んでおくれよ?」 「は、はい……」  羞恥心から体が小さく震える。遊女の色香にくらくらと眩暈を覚えた。  花嫁は清らかであることが条件であるため、凪が遊女を抱くことはなかったが、逆に男に抱かれる方法を指南される。まだ十三歳だった凪は、その行為に強い衝撃を受けたのだった。 「俺、湯玄様とこんなことはできない……」  頭から布団を被り震えていると、「ふふっ。可愛いわね」と遊女が笑った。  凪が遊郭を訪れた数日後。それは、今にも空が泣き出しそうな寒い日のことだった。 「もうすぐ椿屋ともお別れか……」  凪は玄関に飾られた椿屋の看板にそっと触れた。湯玄の花嫁になる準備は、少しずつ、でも着実に進んでいる。それは、同時に椿屋との別れを意味していた。 「寂しいなぁ」  ポツリと呟くと、涙が零れそうなる。  凪が生まれ育った椿屋は、湯滝村の一番奥に建っている古い宿屋だ。椿屋は檜で造られた木造三階建てで、一階が玄関に食堂、そして大浴場がある。二階と三階は客室になっており、客室からは専属の庭師が丁寧に手入れをしている大きな庭と、見事な鯉が悠々と泳ぐ広い池が一望できる。その美しい景観は、思わず溜息が漏れるほどだ。  屋根に置かれた高価な瓦には雪が降り積もり、大きな氷柱が軒下に垂れ下がる。そんな氷柱が日差しを受け、きらきらと輝いていた。  椿屋の玄関には大きな提灯が吊り下げられ、夜になると明かりが灯される。紅色の大きな暖簾が、近くを流れる温泉の湯煙でゆらゆらと揺れる。そして、可愛らしい姫椿が客人を出迎えてくれるのだ。  正午を過ぎると、今晩宿泊する客がそろそろ椿屋にやって来る時間だ。凪は宿の広い玄関を丁寧に箒で掃く。その宿の印象は玄関で決まる、幼い頃から父親に何度も教えられてきた。  瓶《かめ》に飾られている蝋梅の水も変えて、見栄えを整える。  箒の掃き掃除が終わると、今度は玄関の硝子を一枚一枚丁寧に拭いていく。「はぁ」と凪が硝子に息を吹きかけると、息は白い雲となって空へと昇っていく。  そんな吐息を視線で追いかけて空を見上げると、ひらひらと粉雪が空から舞い降りてきていた。 「どうも冷え込むと思ったら、また雪か……」  湯滝村に雪はとてもよく似合う。村の真ん中を流れる川に雪が落ちると、温泉の熱気で一瞬で消えてしまった。真っ赤な橋の欄干にはうっすらと雪が積もり始めている。  店先で咲き誇る姫椿と雪はとても相性がいい。その美しい光景に、凪は思わず目を細めた。 「おい、凪よ」 「……! びっくりした。あんたか……」 「そんなに警戒しなくてもいいだろう? いくらワシだって、湯玄様の花嫁に手を出すほど馬鹿ではない」  そう凪に声をかけてきたのは呉服屋の和助だ。和助は、ことあるごとに気持ちの悪い声を出しながら凪の体に触れようとしたが、凪が花嫁に決まってからはそれもなくなった。 「お前さんの白無垢ができあがったぞ? 言われた通り、打掛に長春色の糸で姫椿の刺繍を入れてやったからな」 「本当か? ありがとう! なぁ、頼んでおいた通り、可愛く仕上げてくれたか?」 「あぁ。可愛らしい娘が着るような白無垢にしてやったさ。しかし、なんでそんなに可愛らしい白無垢にこだわるんだ? お前さんの容姿なら、綺麗な白無垢のほうが似合っているだろうに……」  和助はねっとりとした視線を凪に向ける。その舐めまわすような目つきに、凪は胸が悪くなるのを感じた。  凪は湯玄に嫁入りするときに着る白無垢を、できるだけ可愛らしくしてほしいと和助に頼んだのだ。可憐な少女が身を包む……そんな白無垢がいい、と。 「だってさ、可愛らしい白無垢を着ていけば、もしかしたら男だって気付かれずに床入りができるかもしれないだろう? 一度でも肌を重ねてしまえば、もしかしたら俺に対して情が湧くかもしれない」  凪は先程まで窓を拭いていた雑巾を握り締めたまま、湯花神社の方を仰ぎ見る。 「俺のことを、可愛いとか、愛おしいって思ってくれるかもしれないし……」  こんなことを言っている自分が恥ずかしくなって、凪は思いきり鼻をすする。これでは、好いた男の元へ嫁入りする娘そのものではないか。凪は思わず和助に背を向けた。 「凪よ……」 「ひゃあッ!」  突然和助が腰を撫でてきたものだから、凪は咄嗟に悲鳴を上げた。つい先程凪にはもう触れない、としおらしいことを言っていたものだから、すっかり油断してしまっていたのだ。 「お前さん、いつのまにそんなに色っぽい顔ができるようになったんだ? こんなことなら少々強引にでも手を出しておけばよかった」 「ふざけんなよ、狸じじぃ」  凪が思いきり和助の手を振り払うと、残念そうな顔をしながら凪の顔を覗き込んだ。 「まぁ仕方がない。明日にでも白無垢を届けるから待っておれ」 「本当か? ありがとう」  一体どんな白無垢ができあがったのだろうか。  白無垢を着た自分を、湯玄様は可愛いと言ってくれるだろうか。  不安と期待が入り交じり、凪の心臓が痛いくらい高鳴る。とても嬉しいのに、なんだか照れくさい。 「早く見てみたいな……」  凪は雪が降り続く空を見上げながら、そっと呟いた。  

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