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出来損ないの花嫁②
出発の時間は、空が茜色に染まった頃だった。
凪が椿屋から出てきた瞬間、割れんばかりの拍手に包まれる。店先には凪を一目見ようと大勢の人々が集まっていた。
「あれが凪か……本当に女のように美しい」
「どうか、源泉がまた復活しますように」
ぶつぶつと何かを唱えながら、凪を拝む者さえいる。その異様な光景に、凪は圧倒された。
湯花神社に向かうための籠を目の前にした凪の体が、凍り付いたように動かなくなってしまう。未練たらしく振り向けば、両親と祖母が目元を覆いながらこちらを見ていた。
「当分、この景色を見ることはないんだな……」
父親は立っているのもやっとなのに、凪を見送るために無理をして起きてきたのだろう。あんなに逞しかった父親が今は小さく見える。
優しかった母親と祖母。泣くのを堪えているのがわかってしまい、胸が締め付けられるように痛む。それでも笑って凪を送り出そうとしてくれる姿に、強い愛情を感じた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。体に気をつけてな」
枯れ枝のように細い腕を静かに振る父親に、凪の頬を涙が伝う。せっかくしてもらった化粧が落ちてしまうと、凪は奥歯をギュッと噛み締める。
そして思った。この景色を忘れたくなんてない。
生まれ育った椿屋も、村の真ん中を流れる温泉も、店先で可愛らしい花をつける姫椿も。その全てを目と心に焼き付けて、決して忘れることのないように……。
最後ににっこりと微笑んで見せてから、用意された豪華な籠に乗り込んだのだった。
凪はこのとき人生で初めて籠に乗った。出発してから、あまりにも揺れることにびっくりしてしまう。そもそも幼い頃から歩いて遊びに行っていた湯花神社に、見たこともないような煌びやかな籠に乗って出向くのだ。
さすがに白無垢を着て歩くことはできないが、あまりにも仰々しい扱いに恥ずかしくなってしまう。今まで元気いっぱいに野山を駆け回っていた凪にとって、生まれて初めての体験が続いて、全身から力を抜くことができない。
普段なら「わー!」と大声を上げて頭を掻きむしるところだが、そんなこともできるはずがない。白無垢の帯は苦しいし、顔に塗られた白粉のせいで呼吸が苦しいような気もしてくる。
「花嫁って大変なんだな」
籠に揺られながら、凪は小さな窓からそっと外を覗き見る。いつの間にか日は沈んで、辺りは真っ暗になっていた。
硫黄の香りがどんどん強くなってきているから、きっと湯花神社までそう遠くはないはずだ。籠を担ぐ男たちが持つ提灯以外の明かりはなく、怖いほどの暗闇の中温泉が勢いよく滝壺へと落ちていく音が響き渡る。
そんな中、空に浮かぶ満月が優しく地上を照らしてくれており、凪はそっと胸を撫で下ろした。
湯花神社の鳥居をくぐった瞬間、「ワオーン!」という獣のような鳴き声が聞こえたような気がして、凪は息を呑む。
――もしかしたら、狛犬たちが俺を迎えに来てくれたのかもしれない。
鼓動が少しずつ速くなって、今すぐに籠の中から飛び出したい衝動を必死に堪える。
あんなに椿屋を離れることが寂しかったのに、今はもう一度湯玄に会えることが嬉しくて仕方がない。同時に、強い不安にも襲われた。
――俺は湯玄様に気に入ってもらえるだろうか?
一度そんなことを考え出してしまえば、どんどん深みにはまってしまい不安が津波のように押し寄せてきた。
「凪、着いたぞ。さぁ、降りるんだ」
「……え?」
「湯花神社に着いた。俺達はこれで村に戻るから、凪はこのまま本殿にいるんだ。きっと湯玄様が迎えにきてくれる」
「ここで待っていれば、湯玄様は本当に来てくれるのか?」
「あぁ。湯滝村に古くから伝わる話によれば、湯玄様は満月の夜に白無垢に身を包んだ花嫁を、この本殿に迎えに来るとされている」
本当に湯玄が自分を迎えにきてくるのかと心配になった凪が籠の窓から顔を出すと、籠をここまで運んでくれた男がそう教えてくれる。籠を担ぐくらいだから、逞しい体つきをしていた。
この男たちが帰れば、自分は本当に一人になってしまう……凪は途端に強い恐怖に襲われ、体中の体温が一瞬で奪われていく。
「じゃあ、行くからな。一つだけ提灯を置いていく」
「凪、よろしく頼んだぞ」
「……うん、ここまで連れてきてくれてありがとう」
男たちが深々と凪に頭を下げる。「行かないで」、そう喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込んだ。
籠から降りた凪は神社の本殿へと向かう。一寸先さえも見えないような暗闇を、心もとない提灯の明かりが照らし出した。
漆黒の世界に滝の音……強い恐怖が凪を襲い、踏み出す足が震え少し力を抜くだけで膝が折れそうになった。
「よし、行くぞ」
凪は深く深呼吸してから湯花神社の扉を開ける。ギギッと重たい音と同時に神社の扉は開き、身を裂くほど冷たい空気が吹き抜けてきた。
「こんな寒くて寂しい所に、巫女はずっと一人でいたのか……」
凪の胸は熱くなり、引きちぎれんばかりに痛む。
「ん? なんだ?」
次の瞬間、背後で何者かの気配を感じた凪は、体が凍り付いてしまったかのように動かなくなってしまった。気配だけではない。何かが自分に向かって近寄ってくる音もする。それも足音はひとつだけではなく複数だ。
体は凍り付いてしまう程冷たいのに、嫌な汗がじわっと額に滲む。呼吸が浅くなって息が上手くできない。
こんな時間に湯花神社に参拝客などいるはずもない。では湯玄だろうか? いや、凪はまだ神社の入り口に足を踏み入れただけで、本殿には辿り着いていない。
では一体誰だ……?
恐怖から体が震えて、息苦しくて肩で呼吸をする。逃げ出したくとも足に根が生えてしまったかのように、身動きをとることができない。体を縮こまらせて唇を噛み締めた。
「ワオーン、ワオーン」
「……え……?」
聞き覚えのある声に凪が恐る恐る振り返ると、そこには炎のように真っ赤な色の獣と、空のように真っ青な獣が凪のほうを見つめて立っている。
「お前たちはあの時の狛犬……俺のことを迎えに来てくれたのか?」
凪が嬉しくなって狛犬たちの元に歩み寄ろうとすると、びっくりしたように逃げ出してしまった。
「あ、待ってよ!」
咄嗟に追いかけようとしたけれど、白無垢を着ている凪は自由に体を動かすことさえできない。そもそも、こんなに綺麗に着付けて貰った白無垢が、はだけてしまったら元も子もない。
それでも、遠くなっていきそうな存在を、今の凪は追いかけたくてしかたがなかった。それほどまでに心細かったのだ。
「どこに行くの? 待ってよ!」
凪は白無垢の裾を踏まないようにたくし上げて、二匹の狛犬の後を追いかけたのだった。
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