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四、椿屋にやって来た湯の神

 凪が湯玄と初めて会ってから、七年の月日が流れて……凪は十七歳になっていた。  本当ならば、十七歳になった凪を湯玄が迎えに来てくれて、二人仲良く湯玄の住む世界へと向かうものだと思っていた。しかし、現実と理想はだいぶかけ離れてしまう。  遊郭の前で彼を見て以来、凪はすっかり湯玄のことを信じることができなくなっていた。  湯滝村の真ん中を流れる温泉は、数カ月前から更に湯量が減り、まるで小川のようになってしまった。そのせいか旅人の足も遠退いて、閉業へと追い込まれた宿屋もある。湯滝村が少しずつ廃れていっていることに、凪の心は張り裂けんばかりに痛んだ。  そしてそれは、とても寒い朝のこと。  椿屋の庭にある大きな池にはぶ厚い氷が張り、空を見上げれば今にも雪が降ってきそうだ。福寿草の芽がようやく顔を出したというのに、春は当分湯滝村には訪れそうもなく、冬の空気は村を静かに包み込んでいた。  そんな季節独特の静けさの中、洗濯物がたくさん入った桶をかついで炊事場に向かう途中、椿屋の玄関のほうがやけに騒がしくなる。 「ん?」  一体何の騒ぎだと、凪は足を止めた。 「旦那! 椿屋の旦那はおるか?」 「あらあら、そんなに慌ててどうされたんですか? 生憎夫は調子が悪くて寝てるんです」 「しかし、女将さん、大変なことが起きたんじゃよ!」  椿屋の玄関に押しかけてきたのは湯滝村の長老だった。顔には深い皺が刻まれ、腰はほぼ直角に曲がってしまっている。杖をつきながらやっとの思いで椿屋に辿り着いたようだ。 「そんなに慌ててどうされたんです?」 「どうしたも、こうしたも……」  息切れが止まらない長老の背中を、凪の母親が擦ってやっている。そんな母親に長老が手紙と思われる紙きれを差し出した。その手紙には、綺麗な文字がしたためられている。 「これを……」 「これを、読めばいいんですね?」  そう言いながら手紙を受け取った母親は、さっとそれに目を通したようだ。そして次の瞬間目を見開いた。手紙を持つか細い腕が小さく震えている。 「……長老様、これは一体……」 「ワシも全く意味がわからんのじゃ。しかし、これは湯玄様からの申し渡しだろう」 「でも……なんで、なんで今更⁉」  母親は顔を真っ青にしながら長老にすがりつく。そのただ事ならぬ雰囲気に、凪は聞き耳をたてた。 「今朝、庭で何者かが走り回る音が聞こえたんだ。ワシは泥棒かと思って恐る恐る庭先へ出てみると、そこには紅さんと青さんがいて……」 「紅さんと、青さんって……狛犬の……? いやですよ長老様。そんな、狛犬が動くなんて……」 「ワシだって本当にびっくりしたよ。最初は見間違いかと思ったが、見間違いなんかじゃない。あれは紅さんと青さんだった。それに、あんな色の動物が他にいるわけないじゃろう?」 「それはそうですけど……」  紅さんと青さんと言えば、湯花神社にいる二匹の狛犬の愛称だ。ただ、湯玄が言うには普通の人間にはただの狛犬にしか見えないらしい。それなのになぜだ……凪は首を傾げた。 「……あれ……?」  その時、懐にしまってある湯石が少しずつ熱を帯び始めたことに気が付いた凪は、そっと石を手に取る。赤い光を放ちながらどんどん熱くなっていく湯石を、凪は不思議な思いで見つめた。 「突然やって来た紅さんが咥えていたのがこの手紙だ。これは湯玄様からの申し渡しに違いない。いや、そうとしか考えられん」 「でも、でも……!」 「これで、源泉はきっと復活する。どうかこの通りだ。凪をもう一度、湯玄様の花嫁として捧げてもらえないだろうか?」 「は?」  思わず口から飛び出そうになった言葉を慌てて呑み込む。凪は自分の耳を疑ってしまった。  湯玄は凪を追い返した後、凪が成長するまで四年間待ってくれるような口ぶりだったくせに、当の本人は遊女に囲まれてまんざらでもない顔をしていた。  あの光景は今でも鮮明に頭にこびりついている。湯玄の言葉を信じて四年後を待っていた凪は、裏切られた……という思いを払拭することができずにいた。 「でも凪は一度湯玄様に追い返されています。それなのに、なぜまた凪を?」 「湯玄様の考えはワシにはわからない。しかし、手紙には凪をもう一度花嫁として捧げよ、とちゃんと書いてある。この機会を逃したら、源泉は本当に枯れてしまうかもしれない。だから、頼む……凪をもう一度花嫁に……!」  凪の母親は困惑しきって、今にも泣きそうな顔をしている。凪も、なぜこんなことになっているのか、わけがわからずにいた。 「湯玄様は、女のほうがいいくせに。なんで今更俺なんだよ?」  凪はぐっと奥歯を噛み締める。自分が都合のいいように扱われているような気がして悔しかった。 「俺は、もう絶対湯玄様の嫁になんてならねぇ」  洗濯物が入った桶を担いで、凪はその場を立ち去る。この話は知らなかったことにしよう……凪はそう心に決めたのだが、村を流れる小川のような温泉を目の当たりにしてしまえば、その思いも簡単に揺れてしまう。 「俺は、俺は……」  凪はその場にしゃがみ込み唇を噛み締めた。

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