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椿屋にやって来た湯の神④

 凪が客室の掃除を終え玄関に戻った時、「凪、ちょっとこっちに来なさい」と父親に手招きをされる。父親に呼ばれる理由をわかりきっている凪は、思わず俯く。すぐにでも父親の元へと行かなければならないと頭ではわかっているのに、まるで足に根が生えてしまったように動かないのだ。  それは、凪の体が無意識に拒絶しているようにも感じられる。  しかし、自分を悲しそうな顔で見つめている父親は、もはや一人で立っていることさえできないようだ。母親に支えられてようやく布団から起きてくることができたその姿は、以前元気に店を切り盛りしていた頃の面影なんて全くない。  源泉が干からびていくごとに、凪の父親はどんどん衰弱していった。 「わかった、父さん。今行く」  凪は静かに頷く。こんな父親の姿を見ていることが辛かった。  ――だからと言って、今更……。  凪の心が行きつ戻りつする。しかし、どうしたらいいのかなんて凪にはわからなかった。  父親に連れて行かれた大広間には、長老をはじめ、大勢の村人たちが集まっていた。そのただならぬ雰囲気に凪は眉を顰める。広間に入ることを躊躇っていると、長老が「そこに座りなさい」と声をかけてきた。  両親のほうを見ると、悲しそうに笑いながら凪に向かって静かに頷いて見せる。  ――これじゃあ、逃げられない。  凪は大きく息を吐きながら、広間の畳の上に座った。  これから、どんな話し合いが行われるかなんてわかっている。「ふざけんなよ!」と今すぐこの場を立ち去りたい思いをぐっと耐えた。両親の面目を潰すわけにはいかない。 「凪よ、今朝湯玄様の遣いが私の元へ来た」  ――あぁ、やっぱりこの話か……。  凪は膝の上で拳を握り締める。唇を噛み締めたまま長老の顔を凝視した。 「湯玄様は、もう一度凪を花嫁に迎えたいと仰っておる。なぁ凪、もう一度だけ、湯玄様の元へ嫁いではもらえないだろうか?」 「なんだって?」 「お前も知っての通り、湯花神社の源泉は今にも枯れてしまいそうなほどだ。このままではこの村から温泉は消え、福寿村のように廃れてしまうことだろう」  藁にもすがる思いで自分を見つめる長老の姿に吐き気がしてくる。凪が「出来損ないの花嫁」とどんなに陰口を叩かれても、長老は凪のことなど守ってはくれなかった。それなのに、今更なんだというのだろうか? 「頼む凪、この通りだ!」 「お願いします、凪!」 「凪! この通りだ!」  長老が凪に向かい頭を下げたのが合図だったかのように、その場にいる村人たちも一斉に凪に向かって深々と頭を下げる。その中には、凪に面と向かって悪口を言った者まで含まれていて……その光景を見た凪に虫唾が走った。 「あんなに俺のことを出来損ないって馬鹿にしてきたくせに、なんだよ、この手平返しは……」 「凪、それは本当にすまなかった! この通り謝る! すまなかった!」  凪は悔しさのあまり頭に血が上ってしまう。今更謝られたところで、許せるはずなどない。涙が溢れ出しそうになり、慌てて着物の袖で拭った。  両親に視線を向けると、憐れみを含んだ視線を自分に向けている。  湯滝村と椿屋を守るためには、自分が湯玄の花嫁になるしかないなんて、凪はわかりきっているのだ。両親を困らせたくない、という思いだってある。  それでも、凪は許せなかった。自分のことを「出来損ないの花嫁」と馬鹿にした村人たちも。凪に「四年間待ってやる」と言いながらも、遊女に囲まれて満足そうに笑っていた湯玄のことも……。 「許せるわけねぇだろうが?」  凪はカッと目を見開いて拳で畳を殴った。その瞬間、空気がビリビリと震えて、その場を静寂が包み込む。 「俺は湯玄様の花嫁になるのなんて、二度とご免だ。悪いけど、他を当たってくれ」 「しかし、凪……」 「長老、すまない。俺は出来損ないの花嫁だから」 「凪、凪、待ってくれ!」 「俺は許せないんだ。俺のことを馬鹿にしたあんたたちも、俺のことを追い返した湯玄様も……」  そう言い残すと、凪はその場を立ち去る。「凪、どこに行くの!?」という母親の悲痛な叫び声に後ろ髪を引かれたけれど、振り返ることはしなかった。両親がどんな顔をしているのか、見るのが怖かったから。  凪が今してしまったことは、自分本位な考えであって決して許されるはずなどない。そんなことはわかりきっているのだ。それでも、凪は自分自身の心と上手く折り合いをつけることができずにいた。  今頃、両親は村人たちに非難されてはいないだろうか? あの場に残してきてしまった両親のことが気がかりではあったけれど、今更引き返すこともできない。凪は、今度こそ帰る場所さえも失ってしまったかもしれないと、湧き上がる怒りや悔しさとは反比例して、一方の気持ちは沈んでいく。  村にかかる橋の欄干に寄りかかり、下を流れる温泉を見つめる。凪はこうして幼い頃から、ずっとこの川を見守ってきたのだ。  川の湯量は月日が流れるごとに減っていき、遠くから聞こえてくる湯花神社の滝の音も、耳を澄まさなければ聞こえない程小さな音になってしまっている。源泉が枯れるのも時間の問題なのかもしれない。 「凪、大丈夫?」 「母さん……」 「ふふ。相変わらず凪はここから川を見ているのね」  凪が顔を上げると、そこにはいつもと変わらない笑顔を浮かべた母親が立っていた。自分のことを心配して迎えに来てくれたのだろうか? 凪の心に熱いものが込み上げてくる。 「凪、暗くなる前に帰りましょう? お腹が空いたでしょう?」 「でも、俺は……」 「大丈夫よ。父さんが長老を説得してくれたから。だから、安心して帰ってきなさい」 「母さん……」 「ほら、父さんとおばあちゃんが心配して待ってるわよ」 「うん」  目頭が熱くなった凪は、手の甲で涙を拭う。  空には一番星が輝いていて、静かに凪を見守ってくれていた。  あれから、凪の代わりに村に住む若い娘が花嫁として湯玄に捧げられたと、凪は風の噂を聞く。しかし湯玄が花嫁を迎えに来ることはなく、花嫁に選ばれた娘たちは、翌朝村に帰ってきてしまうとのことだ。 「女が好きなんだろう? 選り好みなんかしてんじゃねぇよ」  そんな噂を聞いた凪は、苦虫を噛み潰したような顔で、湯花神社のほうを睨みつけたのだった。

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