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椿屋にやって来た湯の神⑤
村は数日後に執り行われる『湯祭り』の準備に向けて、慌ただしい雰囲気に包まれていた。湯祭りは年に一回開催される湯滝村にとって大きな行事の一つで、寒い冬に行われる。
いつも村に温泉を分け与えてくれる湯玄に感謝し、末永い村の繁栄を祝う祭りだ。祭りのときは湯花神社を綺麗に飾り付け、源泉までに向かう小道には所狭しに提灯が置かれる。夜になると出店が境内の中で賑わい、花火職人が一年かけて作った花火が盛大に打ち上げられるのだ。
凪は幼い頃から両親に連れられ、湯祭りを訪れた。湯祭りの近辺は湯滝村を訪れる観光客も増え、一気にお祭りの雰囲気に村全体が包まれる。
提灯の柔らかな明かりに照らされた源泉は、青い光を放ち神秘的でとても美しい。この頃の凪は、まさかこの源泉が干からびてしまう……などと考えたことなどなかった。
凪が花嫁になることを拒否してから、数人の娘が湯玄の花嫁になるべく湯花神社へと向かっているようだが、その後も花嫁として湯玄に迎えられた娘はいないようだ。そんな話を聞いてしまうと、凪は罪悪感に胸が痛む。
もし、源泉が本当に枯れてしまったら、それは自分のせいだろうか? 自分の我儘で源泉を枯らしてしまい、椿屋を廃業へと追い込んでしまうことになったら、自分はどうしたらいいのだろうか? 堂々巡りするこの考えは、凪を酷く憂鬱にさせた。
「でも、こんな中途半端な気持ちで、湯玄様の元には嫁げない」
そんなことを思っている自分に気が付いたとき、想像以上に純粋な思いで湯玄のことを好いてしまっていることに気付かされて、凪の心は余計に苦しくなる。
「いっそのこと、この村から出て行こうかな」
ふと頭を過る思い。凪は源泉だとか、椿屋だとか、花嫁だとか……全てから逃げ出してしまいたいと思うこともある。それと同時に優しい両親と祖母、そして椿屋の使用人の顔を思い出してしまうのだ。皆誰も凪にとって大切な人たちばかりで、その人たちを置いてこの村を出るなんて、凪にはできるはずなんてない。
凪は大きく深呼吸を繰り返して、余計な考えを頭から叩き出したのだった。
祭りの準備は着々と進んでいる。つい最近は客足も減り、村全体が寂しい雰囲気に包まれていたが、そんな湯滝村にも祭りのときばかりは活気が戻りつつあるように感じられて、凪は嬉しかった。
「やっぱり祭りってワクワクするなぁ」
凪の表情も自然にほころんでしまう。もしかしたら観光客も少しずつ戻って、湯滝村も以前のような賑わいを取り戻してくれるかもしれない。そんな淡い期待が胸を掠めた。
祭りの準備で凪に割り振られたのは、湯花神社の神殿の掃除だ。「神殿を隅々まで掃除して来い」と長老に言いつけられたときは、正直気が重かった。もしかしたら、湯玄が自分を迎えに来てしまうかもしれない……そんな不安を感じたから。でも今思えば、それが長老の狙いだったのだろう。
凪は朝早くから箒と雑巾、それに大きなたらいを持って湯花神社へと向かった。
「おはよう、紅さん。青さん」
まずは湯花神社の入り口に座っている、二匹の狛犬に挨拶をしてから、心を籠めて綺麗な布で拭いてやる。最後に温かいお湯で汚れを流してやれば、嬉しそうに笑っているように見えた。
「よかった、綺麗になった」
そんな二匹を見て、凪はにっこりと微笑んだ。
それからたらいに温泉を組んで神殿に向かう。長いこと巫女が住んでいない神殿は埃がうっすらと溜まっていた。
凪がこの神殿を訪れたのは、湯玄に追い返された日以来だ。もうここに来ることなんてないと思っていたし、そもそも長老に掃除を言いつけられなければ、来ることもなかっただろう。凪にとって、この神殿は苦い思い出しかなかった。
「よし、やっちまうか」
凪が腕まくりをして神殿の戸を全て開け放とうとした時。ふと、湯石が熱くなるを感じる。湯花神社の近くにある滝の音が、少しだけ大きくなった気がした。
「凪」
ふと誰かに名前を呼ばれた気がして思わず振り返る。もしかして……凪の心臓の鼓動が少しずつ速くなった。
「凪、待っていたぞ」
その声を忘れるはずなんてない。低くて優しい耳ざわりのいい声。凪の心を甘く震わせるのだ。
それは、ずっと会いたかったのに、二度と会いたくない愛しい者の声。凪の体は、まるで凍り付いてしまったかのように動かなくなってしまった。
「来い、凪」
「え?」
突風が吹き荒れたと思った瞬間、何か温かなものに抱き抱えられた凪の体がふわりと宙に浮く。状況を把握する間もなく、凪は声の主に連れさられてしまったのだった。
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