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椿屋にやって来た湯の神⑥
気が付いたとき、凪は源泉にいた。相変わらず卵が腐ったような匂いが立ち込めているその場所は、凪が初めて湯玄と出会った場所である。
ただあの頃と変わってしまったのは、源泉から湧き出ている温泉は今にも止まってしまいそうな程少ない。
「おい、凪よ」
「は?」
突然頭上からした声に凪は思わず顔を上げる。その声は固く、明らかに怒りを含んでいた。凪の視線の先には、憤怒した顔の湯玄が凪を睨みつけていた。
凪はと言えば、湯玄に強く抱き抱えられ身動きをとることもできない。「いつもいつも子供みたいに抱き抱えやがって!」と文句の一つでも言ってやろうと凪が口を開いた時、湯玄の怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「なぜ私の元へ嫁に来ない?」
「……はぁ? ふざけたことを言ってんじゃねぇよ! 四年間待つなんて言いながら、遊郭で女に囲まれながらニヤニヤしてたのはどこのどいつだ⁉」
「なんだ? やっぱりあの時気が付いていたのか」
湯玄は大声で喚き散らす凪のことを見て、煩わしそうに大きな溜息をつく。
「それは誤解だ。私は遊郭に女を買いに行ったわけではない」
「誤解だと? じゃあ、遊郭に飯を食いに行ったとでも言うのかよ⁉ とにかく放しやがれ!」
「なんだ? 其方、もしや妬いているのか?」
「な、何言ってんだよ⁉ いいから離せ‼ 俺は嘘つきが大嫌いなんだよ‼」
「おい、こら。そんなに暴れるな! 落としてしまうだろう」
なんとか湯玄から逃れようと、凪は顔を真っ赤にしながら手足をばたばたさせて抵抗を試みる。湯玄と長く一緒にいてはいけない……凪の本能がそう警笛を鳴らした。
きっと湯玄の腕の逞しさや、温もりを思い出してしまったら、また彼に絆されてしまう……そう思えてならなかった。
「あの時四年間待ってくれるって言ってたじゃん!? それなのに、なんで女の所になんか行くんだよ? あんた、やっぱり女のほうがいいんだろう?」
「それは違うぞ。現にこうして四年後に迎えに来たではないか?」
「いい女が見つからなかっただけだろう?」
「だから、違うと何回も言っているではないか……」
これでは堂々巡りだ。湯玄がわざとらしく大きな溜息をつく。そんな姿が、更に凪をイライラさせた。
「……俺は初恋だったんだ。それを踏みにじった奴の花嫁なんかになりたくはない」
「初恋、か……。其方は変わらず可愛いな」
「な、なんだよ、それ……」
湯玄がフワリと微笑んだものだから、凪は言葉を失ってしまう。湯玄は悔しいけれど、見惚れてしまいそうな程容姿端麗だ。あれから四年もたったけれど、その姿は全く変わっていない。湯玄はあの時と変わらず、美しいままだ。
そんな笑顔を向けられてしまえば、何も言い返すことなんてできるはずがない。頬が少しずつ熱を帯び始めた凪は、思わず湯玄から視線を逸らした。
「其方も見てわかる通り、源泉が枯れ始めている。源泉を復活させるためには、花嫁の生気が必要だ。だから凪、私の元へ嫁に来い」
「だから嫌だって言ってんじゃん!」
「本当に強情な奴だ。手遅れになるぞ?」
「どっちが強情だよ? あんたは強情な上に女たらしだ」
「其方は……私は仮にも湯の神だぞ?」
「神だと? 悔しかったら源泉を今すぐ元通りにして見せろよな」
凪が湯玄を睨みつければ、口角を上げて「くくっ」と愉快そうに笑った。そんな余裕に満ち溢れた姿に、凪は憤りを感じてしまう。
「ならば、私が椿屋に出向くとしよう。花嫁を貰い受けにな?」
「あんたが椿屋に? 湯の神が人里までおりて、花嫁を貰いに来るなんて、聞いたことがねぇよ」
「仕方がないだろう? 誤解をしている花嫁の機嫌が直らないのだから、私が直々に出向くしかないだろう?」
「馬鹿言うな! 大体、神様が人の世界におりてくるなんて……あり得ないだろう?」
「そうでもないぞ? 私が椿屋にいれば、きっと面白いことが起こるはずだ」
面白いことってなんだ? 凪がそう湯玄に問いかけようとした時、頬に湯玄の温かな吐息がかかる。「凪」と名前を呼ばれたから咄嗟に顔を上げると、満面の笑みを浮かべた湯玄と視線が絡み合う。
「今すぐ源泉を元通りにすることはできないが、少しの間だけなら温泉の量を増やすことはできる」
そう耳打ちされた凪は、くすぐったくて思わず肩を上げた。頬にそっと湯玄の唇が押し当てられる。
あ……と、思う間もなく、凪の唇と湯玄の唇が柔らかく重なった。その温かくも甘い感触に、凪の心臓が高鳴る。咄嗟に湯玄の唇から逃げ出せば、追いかけられていとも簡単に捕まってしまう。凪は、無我夢中で湯玄の口付けを受け止めた。
その瞬間、湯石が一気に熱を持ち赤い光を放ち始める。それと同時に、地響きが起こり大地も大きく揺れ始めた。
「来るぞ、私に捕まっていろ」
「来るって何が……わぁぁぁ‼」
ゴゴゴゴッと何かが突き上げてくる感覚と共に、間欠泉が勢いよく吹き出した。辺りは一瞬で湯煙に包まれ、肌が焼けるように熱くなる。息苦しくて、体中が燃えるように熱い。凪は必死に酸素を求めて口を開いた。
「凪、私から離れるな」
まるで自分を守るかのように強く抱き締めてくれる湯玄に、凪は必死にしがみついた。不思議なことに、湯玄に体を寄せた瞬間、息が楽にできるようになり、燃えるような熱さもすっと消えていく。嘘のように体が楽になった凪は、そっと湯玄から体を離し、その顔を見つめた。
「すごいな、口付けだけでこの威力か」
「これ、湯玄様と俺の力……なのか?」
「そうだ。口付けから、お前の生気を吸い取ったのだ」
凪が辺りを見渡すと、源泉からは以前のように湯がとめどなく溢れ出し、滝は囂々と大きな音をたてながら滝壺めがけて落ちている。久しぶりに感じた硫黄の香りを、控えめに吸い込んだ。
「今日は、口づけだけで我慢してやる。でも、いつかお前を抱いてちゃんと生気をいただくからな」
「だ、抱く……⁉」
「そうだ。其方は私の花嫁だ。夫が花嫁を抱くのは当然だろう?」
凪は恥ずかしさのあまり目を泳がせると、形のいい湯玄の唇が視界に飛び込んでくる。薄くて椿の花ように赤い湯玄の唇は、温かくて柔らかかった。初めて経験した口付けに、凪は胸の高鳴りを抑えることができない。
「其方、口付けは初めてだったか?」
「……うん……」
「そうか。其方は何から何まで可愛らしいな」
湯玄が愛おしそうに微笑んでから、凪の頬に自分の頬を寄せる。
「其方を貰いに、椿屋に出向く。それまで待っておれ」
凪の耳元で、湯玄がそっと囁いたのだった。
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