30 / 34

六、神様との喧嘩①

 朝になれば機嫌を直して椿屋に顔を出すと簡単に考えていたが、一晩立っても湯玄は椿屋に戻ってはこなかった。  湯玄と体を寄せ合って布団に潜りこんだときにはあんなに温かったのに、一人で寝る布団は冷たくて……凪は人肌の恋しさを知ることとなる。  湯玄が戻らないことを知った泰富が「申し訳ない」と凪に深々と頭を下げて謝罪してくれたが、別に泰富が悪いわけではない。  湯の神である湯玄を必要としながら、商売繁盛である泰富に簡単になびいてしまった自分が悪い。そう思ってはいるのだけれど……。 「なんか納得いかねぇ」  凪は唸り声をあげる。  洗濯物が入った桶を担いで炊事場に向かう途中、今までのことを思い出す。大体、花嫁として嫁いだ凪をはじめに追い返したのは湯玄だ。「四年間待ってやる」などと甘い言葉を紡ぎながら、遊女たちに囲まれて鼻の下を伸ばしていたことだって、昨日のことのように覚えている。  そもそも、凪は湯玄の花嫁になった覚えはない。そしてこれからも、花嫁になることなんてないだろう。 「あまりにも勝手すぎないか?」  考えれば考える程イライラしてきてしまう。自分は遊女と遊んでいたくせに、凪が少し他の男にいい顔をしただけであんなにも怒るなんて……。自分勝手にも程がある。神様なら、何をしてもいいと思っているのだろうか。  近頃、湯滝村の流れる温泉の量が更に減ってきているが、今日はいつにもまして湯量が少ない。もしかしたら、湯玄が怒っているからだろうか。 「畜生。理不尽過ぎるだろう!」  頭に血が上ってしまった凪は、力任せに着物を洗濯板に擦りつける。こうしていると少しだけ気持ちが落ち着いてくる気がした。凪が夢中で洗濯をしていると……。 「ん? なんだ?」  近くから子猫のような鳴き声が聞こえてくる。もしかしたら母親とはぐれた子猫が鳴いているのかもしれないと、凪は辺りを見渡した。すると、近くの茂みがゴソゴソと動いているのが見える。きっと子猫が隠れているのだろう、と凪はそっと茂みを掻き分けて覗き込んだ。 「ふぇ、ふぇ……」 「あれ? 猫じゃない」  凪の視線の先には六歳くらいの男の子が蹲って泣いていた。  小さな体を小刻みに震わせて泣いている姿はあまりにも可哀そうで、凪は思わずその体にそっと触れた。 「ねぇ、君。どうしたの? どこか痛いの?」 「え? わぁぁぁぁ⁉」 「え、え!? ちょっと待って! 大丈夫だから!」  凪が体に触れた瞬間、少年は突然大きな声を上げる。どうやら飛び上がるほどびっくりしてしまったようだ。涙が浮かぶ真ん丸な瞳を大きく見開いて凪を凝視している。  その少年は、まるで夕暮れのように真っ赤な髪に、そばかすだらけの顔。すごくやんちゃそうなのに、どこか愛嬌のある表情をしていた。 「大丈夫。大丈夫だよ。俺は君に何もしないから」 「ぐすっ……。本当に? お兄ちゃん、悪い奴じゃない?」 「うん。大丈夫だよ」  凪は少年の様子を窺いながら、優しく頭を撫でてやる。  最初は凪を見て震えていたが、少しずつ落ち着きを取り戻してきた少年を見て、凪は安堵の息を吐いた。凪に頭を撫でられることが心地いいようで、気持ちよさそうに目を細めている。 「ごめんな、突然声をかけちゃって。君が泣いていたから、心配になって声をかけちゃったんだ」 「ううん。ボクこそ突然大きな声を出してごめんね?」 「大丈夫だよ。俺は凪。君の名前は? この辺りで見かけない子だね」  その少年を近所で見かけたことがなかった凪は、首を傾げた。もしかしたら観光客だろうか? しかしこんな小さな子供が、早朝に一人で出歩いていることに凪は違和感を覚えた。 「ボクの名前は虎徹(こてつ)。赤シャグマだよ」 「赤シャグマ?」 「そう。座敷童に似てるんだけれど、ボクが住み着いた家には、幸福が訪れると言われてるよ」 「じゃあ、もしかして君も……」 「うん! 一応神様。まだ見習い中だけれどね」  そう照れくさそうに笑う虎徹は、とても可愛らしい。凪は口角が緩んでいくのを感じた。 「こんなに小さいのに神様なんだな。でも不思議だなぁ。湯玄様が椿屋に来てから、やたらと神様に会うようになった」 「温泉は古来より八百万(やおよろず)の神が訪れる場所なんだよ。温泉の湯で神様が疲れを癒すんだって。だからボクもそんな噂を聞いてここに遊びに来たんだけど、どうしたら温泉に入れるのかがわからなくて……。それに遠くから来たから疲れたし、お腹も空いちゃって……」 「そっか。だから虎徹は一人で泣いてたんだね?」 「うん」 「じゃあ、(うち)の宿の温泉でよかったら入っていくかい?」 「え? いいの?」  凪の言葉を聞いた虎徹の表情が明るくなる。それはまるで花が咲いたかのようだ。神様といっても、まだまだ子供の虎徹は湯玄と違い横柄な態度をとることはない。それにとても人懐こいから、凪はつい世話を焼きたくなってしまった。 「俺についてきな。一番風呂に入れてやる」 「ありがとう、凪」 「ちょっと待ってて。これだけ洗濯しちゃうからさ」 「うん。ボクも手伝うね」  虎徹にすっかり癒された凪は、鼻歌を歌いながら洗濯を再開したのだった。

ともだちにシェアしよう!