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タッピング②
「一体これは……」
ふと、声が降ってくる。
突然体を抱き起こされる感覚に、ノアは目を開ける。開けると言っても、泣き腫らした目を必死に開いたところで、目の前にいる男の顔さえよく見えない。
でもノアには声だけで、それが誰なのかよくわかった。ようやく来たのかよ、と小さく呟く。これで、この地獄の苦しみから解放されるのだろうか? それとも──。
「ノア、これは一体どうしたんだ? 何が起きたというのだ?」
「なんだよ、お前があいつに命令したんじゃないのか?」
「あいつ? 命令だと? なんの話だ……おい、医師を連れてこい。今すぐにだ!」
「はっ!」
イヴァンの後ろに控えていた家臣が、勢いよく部屋から出て行く。それを見たノアは、「あぁ、自分は助かるんだ」と薄れゆく意識の中で思った。
「ノア、大丈夫か? しっかりするのだ」
「これが大丈夫に見えるのかよ……お前の目は節穴か……?」
「すまない。公務が重なってしまい、なかなか其方の元へと来られなかったのだ。こんなに目が腫れあがって、しかも床に倒れているなど……一体何があったというのだ?」
「……突然、お前の一番偉い家臣とかいう奴が来て、あの瓶いっぱいになるまで花を生めって……。できなければ、クレイン夫妻に危害を加えるって脅されたから」
「なんだと?」
「……なんだよ? お前の命令でやったんじゃないのかよ?」
「私がこんな無茶な命令をするわけがないだろう?」
その瞬間イヴァンの顔が強張る。綺麗な切れ長の瞳に怒りの炎が燃え盛り、明らかに逆上したことが見て取れた。
「ハッシェルの奴……。後で、キツイ罰を与えておく。それより、其方、体は大丈夫なのか?」
「だから、大丈夫じゃねぇって」
「そうか。可哀そうに……。無理をさせてすまなかった」
ノアを抱きかかえ、優しく髪を撫でてくれるイヴァンの顔は、先程と打って変わってひどく優しい。まるでノアを労わるような抱擁に、全身から力が抜けていくのを感じた。
「ノア、少しだけ我慢してくれ」
「は……? ……なにを?」
「タッピングをする」
「……タッピ、ング、って」
ノアは一瞬、何を言われているかわかりかねていたが、その単語を初めて聞いたときのことが、急激に記憶に蘇ってきた。
あのときも、この男の口から聞いたはずだ。
「花食みである私の体液を、花生みである其方に分け与えることで、其方の体を癒してやることができるはずだ」
突然近付いてきたイヴァンの顔を、ノアは思わず、両手で押しとどめた。
「た、体液だって……っ?」
そもそも、タッピングの経験などないノアの鼓動はどんどん速くなり、頬に熱を帯びていく。イヴァンは至極真面目な表情で、小さく頷いた。
「其方と私はブートニエールではないが、それでも、花食みの体液であれば、多少は元気にしてやれる」
「だ、だからどうやって体液を分け与えるつもりなんだよ!?」
「口付けだ」
「くち、づけ……?」
ノアの顔が一瞬で赤くなり、心臓が口から飛び出しそうになる。ノアは咄嗟にイヴァンから体を離そうとしたが、疲れきっていたこともあって、いとも簡単に腕の中に捕らわれてしまった。
「い、嫌だ、お前とキスなんてしたくねぇ!!」
「しかし、いきなり抱かれるよりはいいだろう?」
「だ、抱かれる……」
心配そうに自分の顔を覗き込むイヴァン。緊張から、ノアの体が小さく震え出した。
「お前とキスするのも、お前に抱かれるのも絶対に嫌だ!!」
「しかし、其方の体が……」
「死んでも嫌だ!!」
「それは困ったな……。だからと言って、私以外の花食みと其方がタッピングをするなど、私には我慢できない」
イヴァンは前髪を搔き上げながら大きな溜息をつく。その時、医師が部屋へと駆けつけてきた。助かった……とノアは安堵の息を吐く。ノアは藁にも縋る思いで医師を見つめた。
「とにかく、体に異常がなくてよかった。ハッシェルの処分は明日までに検討しておくから、今後はこのような無茶な命令には従わないように」
「わかった……もう、従わない」
「——すまない、キツイ言い方をしてしまったな。其方が悪いわけではないのに……」
ベッドに横になるノアの頬を労わるように撫でてくれる。その優しい手つきに、思わず目を細めた。
「先程、瓶に入っていたベゴニアを食べてみたら、とても美味しかった」
「は? 食べたのかよ?」
「あぁ。其方が一生懸命生み出してくれた花を、無駄になんてできないからな。明日、その花を城内の畑に大切に植えよう。きっと、立派な作物が育つことだろう。ありがとう、ノア」
「べ、別に……お前の為じゃねぇし」
「ふふっ。相変わらず意地っ張りだな」
イヴァンは床に跪き、ノアの額にそっとキスを落とす。
それから幸せそうに微笑む。その笑顔にノアの胸が締めつけられた。
「タッピングは許してもらえなかったが、今晩一緒に眠ることは許してもらえるだろうか?」
「一緒にって……このベッドに?」
「ああそうだ。タッピングほどの効果は期待できないだろうが、花食みと花生みが触れあうだけでも、私の力を其方に分け与えることができるかもしれない」
「でも……」
「頼む。其方と一緒にいたいんだ」
手の甲にそっとキスをされたノアの頬が、徐々に熱を帯びていく。大体一国の主が床に跪くなんてあり得ない話だ。あのハッシェルがこの状況を見たら「あぁ、嘆かわしい!」と、泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。
でも——。
「わかった。入れよ」
「ありがとう、ノア」
ノアがベッドの隅によると、イヴァンが安堵したような顔を見せる。その穏やかな表情は、あの日ノアが見たイヴァンとはまるで別人だ。
「おやすみ、ノア。私の大切な花生み」
イヴァンはノアをまるで大切な贈り物のように抱きしめてくれる。その温もりに、一日花を生み出し続けた体から一気に力が抜けていった。
花食みの力が、体にジンワリと沁み込んでくるような感覚に陥る。
「あぁ……疲れたな」
ノアは遠慮がちにイヴァンに体を寄せ、その胸に体を埋める。
そんなノアを、イヴァンは朝まで抱き締め続けてくれたのだった。
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