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タッピング③

「ノア、私は公務へ向かう。其方はゆっくり休むがいい」 「ん? もう行っちゃうのか?」 「ああ、其方はまだ休んでいるがいい。昨日、あれほど花を生み出したのであれば疲れたであろう?」 「んん……」 「行ってくる」  額に柔らかなものが触れた気がしたノアは、そっと目を開く。視線の先には穏やかな笑みを浮かべたイヴァンがいた。イヴァンがノアから離れていこうとした折に、ノアは無意識にイヴァンの洋服の裾を掴んだ。 「これは……。随分と可愛らしいことをしてくれる」  イヴァンが嬉しそうに笑うものだから、ノアは慌てて洋服から手を放す。少しでも「寂しい」と感じた自分が恥ずかしくなってしまった。 「大丈夫だ。今日は其方に無理などさせない。時々アッシュに其方の様子を見に来るよう伝えておく」 「……アッシュが?」 「私が最も信頼する家来だ」 「……そうか」  イヴァンはそう言うが、ノアはアッシュという男が苦手だった。炎のように赤い髪に、岩のような体。それはまるで荒ぶる獅子のようで、彼に比べると自分がまるで子猫のように感じられる。  いつもイヴァンの後ろから、自分を睨みつけているようで面白くないのだ。 「昨日其方が生み出してくれたベゴニアは、小麦畑に大切に植えさせてもらう。今年はきっと豊作になることだろう」 「そっか……。ならよかった」  そっと頬を撫でられたノアは、くすぐったくて思わず目を細める。その光景を見たイヴァンが「可愛らしい」と微笑んだ。その笑みから滲む、彼からの愛情を、ノアは感じずにはいられなかった。  ノアの枕元には、昨日目を冷やすときに使ったハンカチーフが、丁寧に畳んで置かれていた。 「では」  そう言い残し、イヴァンは箱庭を後にした。  イヴァンが公務に向かった後、すぐに豪勢な朝食が運ばれてくる。その光景は、まるで昨日の朝の繰り返しだった。 「さぁ、ノア様。今日も一流のシェフが心を込めて作った料理をお持ちいたしました。存分にご堪能くださいませ」 「はぁ……」  ノアはこのテンションの料理長も苦手なのだ。  農作物が育たないせいで、食事すら満足に食べられない人々はたくさんいる。その事実を知りながら、ご馳走を並べられたところで、「美味しい」と呑気に食事などできるわけがない。今も、お腹を空かせている人は、城の外に大勢いるのに——そう思うと、ノアの良心は痛むのだ。  大きな溜息をつきながらフォークとナイフを持ったとき、勢いよく箱庭の扉が開く。ノアが眉を顰めながら扉の方を向くと、自分が苦手とする人物がこちらに近づいてくるのが見える。 「ついに来たかよ……」  その場にいた家来たちが、一斉に深々と頭《こうべ》を垂れるのを見たノアは小さく舌打ちをした。 「おはようございます。ノア様」 「お、おはようございます」  背の高いアッシュに上から見下ろされると、全身に力がこもり委縮してしまうのを感じる。ノアが弱々しく睨み返したところで、アッシュは何も感じないことだろう。  楽しくもない食事が、さらに憂鬱になってしまった。 「ノア様、全く食事に手をつけていないではないですか?」 「あ、えっと……。食欲がなくて」 「そんな風だから、女みたいに華奢な体つきをしているのです。さぁ、お食べください。ノア様が食事を召し上がらないと、陛下が心配されます」 「……わかってる」 「では、早く召し上がってください」  アッシュは一礼してから、ノアの近くへとやってくる。その威圧感に押しつぶされそうになってしまった。 「大体、なんで騎士団の団長であるあんたが、俺の所に来る必要があるんだよ? あんたは国王陛下の傍にいて、国王陛下をお守りすることが仕事じゃないのか?」  ノアは苛立ちを混ぜた口調で、アッシュへと問いかける。  するとアッシュはその大きな両肩を竦ませたかと思うと、わざとらしく首を横に振った。 「はぁ……わかっていらっしゃらないのですね」 「……な、なんだよ。そのわざとらしいため息はっ?」  大きく息を吐いたアッシュを見ているとイライラが更に募った。この男は、イヴァンに自分の子守をしていろとでも命令されたのだろうか? いちいち言動が鼻について仕方がない。 「貴方は本当にわかっていない。昨日のハッシェルの件をもうお忘れになられたのか? 今この城には、貴方のことを陥れようとする者がごまんといるのです」  アッシュの言葉に、ノアは目を見開いて、遅れて息を呑むような音を喉から出した。 「陥れられるだけならまだしも、命を狙われたり、さらわれてどこかに売り飛ばされる危険だって否定できない。貴方は、今、自分がどんなに危険な状況にいるのかが全くわかっていない」 「…………」 「だから、こうやって私が貴方の護衛を、陛下より言いつけられたのですよ。おわかり頂けましたら、早く食事をお済ませくださいませ。私も暇ではありませんので」 「わ、わかったよ。食えばいいんだろっ」  アッシュの口調は相変わらず高圧的で気に入らないが、彼ほど有能な護衛はいないだろう。ノアは渋々と食事を口に運ぶ。

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