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第四節 裏表

 荻野の考えが分からない。元々、この男のことで分かっていることなどほとんどなかった。知らない一面が増えただけのことだ。同じ部屋で寝起きして、同じ釜の飯を食べ、さらには体を重ねても、分からないことが増えていく。理解からますます遠ざかる。  理解できない存在を相手にする焦燥が募る一方で、荻野のことなど一生分からないままでいいとも思う。彼の真意を知ってしまえば、それこそ後戻りができなくなる。そんな気がする。  あいつはただの色狂いで、手近な棒を求めていただけ。杉崎も杉崎で、気安い穴を求めていただけ。互いに利害が一致した。ただそれだけの話だ。単純な同居生活に、別の文脈が追加されただけ。それでいいと、お互いに思っている。   「……おい」    掠れた声で荻野が言う。杉崎は咥えていた煙草を指に挟み、荻野に咥えさせた。まだ呼吸が収まらないまま深く煙を吸ったので、案の定咽せて、乾いた咳を繰り返した。   「ほらまたぁ、一気に吸うから」 「なんでてめぇの吸いさしなんだよ」 「今言うことか、それ? 煙草より先に水飲めよ」    涙目で言った荻野の背中を摩りながら、杉崎は枕元のグラスを取り、荻野の唇に押し当ててゆっくり傾けた。  顎先に薄く生やした髭に水滴がつく。ラムネのビー玉のような喉仏が上下する。尻にモノを突っ込まれて女みたいに善がっているくせに、顔も体も紛うことなき男だ。この男を、杉崎は二晩と置かずに抱いて、己の雌にしている。   「おい、もういいって」    荻野の焦った声にはっとした。グラスの中身はほとんど空で、飲み切れなかったらしい水が掛布団に滲みていた。「半端なことをすんな」と吐き捨てるように言うと、荻野は再び煙草を咥え、枕を抱いてうつ伏せになった。   「濡れたまんまでいいのかよ」 「勝手に乾くだろ。どうせ汁まみれになってんだ。今更だろ」 「てめぇの飛ばした汁だろうが」 「その汁浴びて悦んでたのはどこのどいつだよ」 「悦んでねーし! テキトーこいてんじゃねーよ」 「はっ、どうだかな」    元々、この家に寝具は一組しかなかった。蓮見家から来客用の布団を借りてきて、荻野の寝具としていた。しかし、借り物の布団でまぐわうのは、いくら面の皮が厚いといえど憚られ、性行為をするのはもっぱら、杉崎が元々所有していた布団でと決まっている。  一応、布団は二組敷いておいて、行為が終われば別々の布団で寝ることにしているのだが、行為後の気怠い体をすぐさま横たえたいのは杉崎も荻野も同じであり、ついつい同じ布団に潜り込んだまま眠りこけてしまうことが多い。薄い布団はますます薄く、汗やら体液やらを吸ってくたびれていく。  蒼い煙が燻っている。杉崎よりも一回り小さい、乾いた冷たい手が目立つ。指は意外とほっそりしている。人差し指と中指で煙草を挟む。口元を覆うようにして煙草を吸う。吐き出した煙が唇を濡らす。   「……なんだよ」    灰を捨てようとした荻野の手に手を添えて、杉崎は煙草を灰皿に押し潰した。布団を捲り、うつ伏せになっていた荻野を起こして仰向けにして、覆い被さる。   「捲んな、寒い」    手探りで荻野の体をまさぐる。まだ下着も穿いていない。今すぐにでも“次”ができる。荻野は身を捩りながら、杉崎の手を自身の胸元へ導いた。   「待てのできねぇ駄犬か?てめぇは」 「五分で終わらす」 「ゴムはつけろよ」    なぜこんなにも欲しくなるのか。自分でも分からない。ただ、この男と肌を合わせていると、安心するのだ。この男には、自分と同じ血が流れている。慣れ親しんだにおいがする。もっと深く繋がれば、心の深いところで交われるのではないかと、そんなことを予感させる。   「おい、駄犬は突っ込めりゃ満足か?」    荻野が挑発するように指を動かす。杉崎はその手を握り、布団へきつく押さえ付けた。唇を重ねて、初めから深く舌をねじ込む。荻野も応えて舌を絡める。ナカがきつく締め付けた。  以前自分で言っていた通り、荻野は乱暴にされるのが好きらしい。薄い腹をぶち破る勢いで突いてやると、途端に発情する。雌猫のように腰をくねらせて射精を煽る。指を噛むのを杉崎が咎めると、愉快そうににやりと笑って、「気色悪いんじゃなかったのかよ」と言う。「いいから聞かせろよ」と杉崎が言えば、案外素直に言うことを聞く。耳に唇を近づけて、甘い声を聞かせてくる。  杉崎の獣じみた凶暴性を、荻野は喜んでいる節がある。それを引き出すために、あえて露悪的なことを口にしたり、横柄な態度を取ったり、見下すようなことを言ったりする。その一々に反応することで荻野を悦ばせていることに、杉崎はまだ気づいていない。  口の中まで同じ味だ。とろりとした唾液も、煙草の苦みも。  杉崎は元々喫煙者ではない。荻野とこういう関係になって、事が済むごとに彼が煙草を吸うものだから、その影響で吸うようになった。「ヤッた後の一服が一番うまい」という荻野を真似て、行為の後に少しだけ吸う。煙草のうまさはまだ分からない。ただ少し、荻野の体を流れる煙と同じものが己の中にも流れていることに、暗い愉悦を覚えている。  こんな関係は健全ではない。男同士ということを差し引いても、愛を確かめ合った仲でもないのに、肉体だけを貪り食うような関係は、とても健全とはいえない。この狭い田舎町においては誰にも、特に莉子にだけは、この関係は隠し通さねばならない。あの子にだけは、この世の残酷さを知らぬまま、罪穢れとは無縁のまま、清らかなまま育ってほしいというのが、杉崎の純粋かつ素朴な祈りなのである。   「わぁ、すごいすごい! やっぱり人手が多いと早いね」    莉子に頼まれ、かまくらを作っていた。杉崎は一人でできると言ったのに、莉子の誘いで、荻野もスコップを担いでいる。   「ねぇ、余った雪で坂道作って? ソリで滑りたい」 「お前、これ以上大人をこき使う気か」 「私は雪だるま作るので忙しいから。ブランカもソリ滑りしたいって」 「こいつはソリを引っ張る係だろ」    釈然としない様子ながらも、荻野はスコップで雪を集め、踏み固めて坂を作る。莉子に接する時の荻野は、至って自然体のように見える。肩肘張らず、妙な嫌みも言わず、面倒見もいい。無口でぶっきらぼうなところはあるが、至って普通の、見ようによっては好青年のような顔で、莉子に接する。莉子も荻野に懐いている。   「(よう)ちゃん、これ、一番上に乗っけて」 「雪だるまの頭できたの?」 「うん。大きすぎた?」 「大丈夫だよ。貸してごらん」    莉子と接する時、杉崎は穏やかな気持ちになる。声のトーン、柔らかさからして、荻野に接する時とはまるで違う。意識せずとも自然体でいられる。無垢だった子供の頃に、心だけは帰れる気がする。   「このバケツは帽子で、目は木の実にして」    杉崎が莉子に渡された顔のパーツをはめていると、荻野が会話に割って入った。   「サモエドが邪魔して作業が進まん」 「ブランカな!? なんで犬種で呼ぶんだよ」 「あー、ブランカは穴掘りが好きだから」    荻野が雪を固めたそばから、ブランカが雪を掘り返している。莉子が呼べば、ブランカは尻尾を振って莉子の元へ戻る。荻野はもう飽きたという風にスコップを雪に突き刺した。   「わあ、ちゃんと坂になってる」 「こんなもんで満足か」 「うん、十分すごいよ。早速滑ってみるね」 「大した長さじゃないぞ」 「これくらいがちょうどいいんだ」    どれが荻野の本当の姿なのか。嘘ばかり言って杉崎を振り回したり、莉子を若い女呼ばわりしたり、あるいは、セックス依存の色情魔だったり、掘られて悦ぶ変態だったり、それとも、莉子と接する時の好青年が、彼の本当の姿なのだろうか。考えても答えは出ないのに、考えてしまう。   「すごい立派なかまくらじゃない?これ。自分で作っといて何だけどさ」 「うん、二人のおかげだ。三人でも余裕で入れる」    手伝ってくれた礼にと、莉子がコーヒーを淹れてくれる。カセットコンロでお湯を沸かし、フィルターをセットしたドリッパーにゆっくりと注ぎ入れる。細口のケトルから、均一にお湯が注がれる。   「いい匂いしてきたね」 「ちょっと待ってね。急いじゃダメなんだ、こういうのは」    数回に分けてお湯を注ぎ、じっくりと時間をかけてドリップを終える。ポットからカップにコーヒーを注げば、完成だ。  はい、と莉子は杉崎と荻野にそれぞれカップを手渡した。「まだ練習中だから、おいしくできたか分からないけど」と照れくさそうに言う莉子に、「全然! 上手にできてるよ」と杉崎は笑った。   「ゴメン、熱かった?」    猫舌の荻野は、なかなかカップに口をつけない。舌先で軽く触れるようにしながら慎重に温度を確かめる様を見て、莉子が優しく声をかける。   「雪に埋めておけばすぐ冷めるかも。貸して」    地面に浅く穴を掘り、コーヒーが入ったままのカップを置く。鮮やかな緋色が雪に映える。ブランカが興味津々ににおいを嗅ぐので、「だめだめ、ブランカには毒だから」と莉子が制止する。その代わりといっては何だが、莉子はポケットからビスケットを取り出して、ブランカに与えた。   「はい、偲くんも。コーヒー冷めるまで暇でしょ」 「犬用だろ」 「んも~、これは人も犬も食べられるおやつなの!」    莉子は、ビスケットを数枚、荻野の手に乗せる。肉球をかたどった小さなビスケットだ。荻野は怪訝そうににおいを嗅ぎながら、一枚食べた。莉子は満足そうに笑う。  湯気が視界を霞ませる。かまくらの中に灯りはないが、雪の反射で白く明るい。夜明け前に似た仄白さ。杉崎は莉子の腕を掴み、引き寄せた。   「ダメだよ、莉子ちゃん」    莉子は、一瞬目を丸くしたかと思えば、みるみるうちに頬を赤くした。寒さで鼻が赤くなるのとは違う。コンロにかけたヤカンのように赤くなる。   「こいつに近づくと、においが移るよ」 「におい? 偲くん、臭いの?」 「アホか。おれがくせぇなら、杉崎もくせぇに決まってる」 「そうだよね。同じ洗剤使ってるんだし」    そう納得しつつもにおいを確かめようとする莉子の腕を、杉崎はさらに強く引いた。莉子は目を白黒させると、ポケットに手を突っ込んだ。   「もしかしてこれ? 遥ちゃんも食べる?」    取り出したのは、例のビスケットだった。数枚、杉崎の手に乗せてくれる。杉崎が一口で頬張ると、莉子は嬉しそうに笑った。   「なんだぁ、そんなに食べたかったの? 言ってくれたらよかったのに。焦らなくても、まだいっぱいあるからね」 「いや、そういうつもりじゃ……」 「偲くんももっといる? あ、ブランカももっとほしい? 順番だぞ、順番」    苦みの強いコーヒーに、角砂糖とミルクを溶かす。素朴な味のビスケットがよく合う。莉子がくれるものは、何でもそうだった。  莉子を荻野に近づけたくなかった。いや、逆なのだろうか。荻野を莉子に近づけたくなかった。  あいつのにおいが移ると思った。だが、そのにおいの正体が何なのか、杉崎にもはっきりとは分からないのだった。煙草のにおいか、はたまた、精液のにおいか。どちらにしても、莉子にふさわしいものではない。それだけが明白だった。   「どう? そろそろ冷めたんじゃない?」    雪に埋めて冷ましていた荻野のカップを、莉子は掘り出して荻野に渡した。ふう、と軽く息を吹きかけてから、荻野はゆっくりとコーヒーを口に含む。   「遥ちゃんは? 角砂糖、もいっこほしいんじゃない?」 「……うん、ありがと。もらおっかな」    オフホワイトのマグカップ。花の模様が彫られている。蓮見家を幾度も訪れるうちに、いつの間にか杉崎専用になっていた。  砂糖をいくつ入れたところで、コーヒーの苦みは誤魔化せない。澱のように溜まった苦みを、完全に消し去ることはできない。考えるまでもなく、分かっていることだ。

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