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第六節 血のにおい
人を殺したことはあるか、と荻野が言った。何気ない午後のことだった。
「これお前だろ」
テーブルに紙の束が置かれている。週刊誌を印刷したもので、ページの隅に小さく顔写真が載っている。黒目線は入っているが、特定を避けるという点では意味がない。見る人が見れば一目で分かる。写っているのは、十七歳頃の杉崎遥平本人であった。
「この少年Sって、お前だろ」
三十四歳養母を殴殺。十七歳少年の心の闇とは。密室の愛。禁断の関係。独自取材で真相に迫る。──勝手なことばかり書き連ねた見出しを、荻野は機械のように読み上げる。
「いくら目元を隠したって、こんな傷があってはな」
とんとんとリズムを刻み、低画質のモノクロ写真を指で叩く。
「なぁ、人殺し?」
杉崎の頬に触れ、傷痕を指でなぞった。左頬に斜めに走る、口から耳まで切り裂いたような古い傷痕。
「この傷で思い出したぜ。東名高速のトンネル事故で唯一生き残った、杉崎遥平クン」
「……」
潮が引くように熱が褪めていく。初めからそうだったみたいに、まるで血が通っていないみたいに、胸の奥に冷たいものが広がっていく。ぽかんと口を開けた闇に、隙間風が吹き込んでいる。
「……でたらめだ」
唇が勝手に動いた。荻野は薄気味悪い笑みを浮かべて、得意げに足を組み直す。
「そうかな? 少なくとも、この写真は本物だろう。こんな目立つ顔がいくつもあってたまるかよ」
荻野は、コピー用紙をぱらぱら捲る。淡々と記事を読み上げる。
「優等生か、不良少年か。仮面の裏に……隠された孤独とは。被害者女性と交際中の……二十九歳男性……も、素手で殴り殺し。痴情のもつれ、か……」
「でたらめだ」
「どこがどう違う」
「……全部……」
杉崎は拳を握りしめる。テーブルに積まれている紙の束を殴り付けて払い落とした。風に舞いながら床に散らばる。
「何も違わないさ。おれはお前の性根をよく知ってるぜ。お前は平気で人を殺せる」
「違う、俺はそんなんじゃ」
「それなら、おれがあの娘を……いや、あの犬を轢き殺したら、お前はおれを殺すかな」
考える間もなく手が出ていた。反射で動いた右の拳が時間差で痺れる。荻野は後方に倒れている。シンク下の戸棚が開いている。
「……違う、俺は……」
荻野はぴくりとも動かない。打ち所が悪くて死んだのか。いやまさか、一発殴ったくらいでは……
週刊誌の文面を思い出す。養母を殴殺。男を素手で殴り殺す。十七歳の少年が。
倒れたままの荻野に近づく。息をしているのかどうか。それだけを確かめるべく、上から覗き込むようにして様子を窺った。その時だった。
ひゅっ、と何かが閃いた。銀の閃光が視界を掠める。左頬に熱が走る。血の噴き出す感触がした。
「てめぇ……」
荻野は包丁を握っていた。杉崎は荻野の手首を掴む。腕をねじ上げて押さえ込む。ボキボキッ、と鈍い音がしたかと思えば、バキンッ、と骨の砕ける音が響いた。
荻野の腕から力が抜ける。杉崎は奪った包丁を背後へ投げる。荻野は肩越しに杉崎を見る。鼻から血を流しながら、笑っていた。突き刺すような瞳は、愉悦と狂気に満ちていた。
「だから言っただろう。お前もおれと同じだ」
肘打ちで顔面を殴り付けた。バキッと再び嫌な音。荻野は血を噴きながら体を捻る。右手をだらりとさせたまま、左手だけで殴りかかる。
拳を濡らす血の感触が懐かしい。血の温度が懐かしい。咽返るような血のにおいが懐かしい。あとはガソリンのにおいがすれば、燃える炎と黒煙が視界を奪ってくれれば、完璧なのに。
気づけば血の海に溺れていた。荻野の滑らかな白い肌に、鮮やかな血の色がよく映えた。肌にこびり付く渇いた血は、瞬時に新しい血に塗り替えられた。
血の海に沈んで微笑んでいる。荻野の両目がぱっと開く。一瞬にして距離が詰まる。鼻先に鈍い痛みが走る。
杉崎の怯んだ隙に、荻野は血の海を這い出した。床に落ちた包丁を拾い、杉崎に向けて投げ付ける。血潮に錆びた刃が、杉崎の左肩に突き刺さる。よろめいて、血の海に足を滑らせた。頭を打ち、意識が途切れる。
人を殺したことがある。
交通事故で全てを失い、一晩で孤独になった杉崎を待っていたのは、さらに過酷な運命だった。口数少なく、表情も変わらず、唯一残された家族である秋田犬を抱きしめて離さない傷だらけの少年を、親戚はみな気味悪がった。あちこちの家をたらい回しにされたが、どの家にも最後まで馴染めなかった。
十七の頃は、遠縁に当たるという女の元で暮らしていた。まだ若く、結婚もしていなかったという理由で、他の親族から押し付けられたのだろうと、今なら分かる。彼女は、遠い親戚の子供を引き取って育てることのできる人間ではなかった。
彼女が杉崎の存在を疎ましく思っていたのは、態度にはっきりと表れていた。中学生の頃の杉崎には、空腹の記憶しかない。いつも腹を空かせていた。高校に上がってアルバイトを始めると、給料のほとんどを生活費として奪われた。
彼氏を家に呼ぶ時は、冬でも夜でも関係なく、杉崎は家を閉め出された。秋田犬の茶々を連れ、人目を避けて暇を潰し、時には抱きしめて夜を明かした。唯一の家族、唯一の財産、たった一つ残された心の拠り所が、茶々だった。
ある日、学校から帰ると、玄関に大きなゴミ袋が置かれていた。生臭い血のにおいがした。あんたそれ捨てといて、と女が言った。
中身を確認する勇気はなかった。そんなことをせずとも分かっていた。家の中にも、狭い庭にも、気配が一つ足りなかった。あまりにも静かだった。
ホームセンターでスコップを買った。ゴミ袋を担いで河川敷へ行き、深い穴を掘って埋めた。泥だらけになって帰ると、駐車場に女の彼氏の車が停まっていた。フロントバンパーに、赤黒い血と赤茶けた毛がこびり付いていた。
玄関を開けた杉崎に、しっかり始末してきたか、と男が言った。呆気ないもんだったな、とゲラゲラ笑った。女も笑った。ケタケタ笑った。杉崎の手からスコップが滑り落ちる。
そこからの記憶は途切れ途切れだ。懐かしい血のにおいに包まれていた。血の温度が懐かしかった。拳を濡らす感触だけが新鮮だった。噴き出した鮮血が、砕け散った肉片と混ざり合う。泥のような血肉が、潰れた拳にへばり付く。
自分が今殴っているのが男なのか女なのか、見当がつかなかった。目の前が血に染まっていた。頭から血が噴き出ていた。スコップで殴られたのだった。頭から血を流しながら、殺せるものなら殺してみろと叫んでいた。
室内は、血の海に沈んでいた。おびただしい量の血が流れた。壁にも天井にも、血肉が迸っていた。錆びた血のにおいと、生臭い肉のにおいが充満していた。砕け散った骨の破片も、どす黒い血に染まっていた。
また自分だけが生き残った。もう何も残っていないのに、命だけが取り残された。
血泥にまみれたまま、杉崎は家を出た。茶々を埋めた河川敷へ戻り、墓の上で一夜を明かした。朝になって家に戻ると、複数台のパトカーが停まっていた。
白いカーテン。白い天井。白い壁。窓に差し込む光は脆く揺らめいている。白いベッドに、荻野が寝ている。
頭を打って意識が途切れた後、気づけば夜になっていた。荻野は姿を消していた。自力で応急処置をして、そのまま眠った。朝になって近所の診療所へかかり、荻野が入院したことを知った。
隣町の総合病院で、昨晩のうちに手術を受けたという。杉崎が駆け付けた時、荻野は眠っていた。白い病室、窓際のベッドで。杉崎の気配に気づいて目を開けた。「仕留め損ねたな」と不敵に笑う。その笑顔は、血の海で見た姿と寸分違わぬものだった。
「……言えた義理かよ」
「顔見せろ」
荻野が左手を伸ばす。杉崎は顔を近づけた。左頬に手が触れる。あの熱い血が通っているとは思えない、冷たい手だ。
「十針縫った」
「はっ、ざまあねぇ」
「だから言えた義理かっての」
杉崎は入院もなく治療が済んだ。左頬と左肩と、いずれも包丁による傷である。頬の切り傷は縫合し、ガーゼを貼るだけで済んだ。肩の刺し傷が厄介で、固定のために三角巾を吊っている。
数日も経たぬうちに、莉子が見舞いに来た。蓮見に連れられて、小さな花束を持ってきた。白いカーネーションに、紫のトルコキキョウ、淡いピンクのアルストロメリアと、可憐なカスミソウを添えて花瓶に生け、窓辺に生けた。
「岩場で足を滑らせるなんて、偲くんもおっちょこちょいだ」
莉子が言った。病室へ入ってきた時には蒼褪めていた顔色が、幾分マシになっている。
「命に係わる怪我じゃなくてよかったけど……痛かったよね?」
ギプスをはめた荻野の右腕に、莉子はそっと指を添える。
「折れた時は痛くねぇよ」
「そうなの?」
「手術の後がきつかった」
「……今は?」
「全然。痛み止めも効いてるからな」
「……よかった」
莉子は泣きそうな顔で安堵の息をつき、窓辺に寄りかかる杉崎を見た。
「遥ちゃんもだよ? 台所で滑って転んで、包丁が飛んできたって、どういうこと」
「いや~、俺も何がなんだか……」
「ただでさえ傷だらけなのに、これ以上傷を増やさなくったって……」
「俺は大丈夫だよ、莉子ちゃん。骨が折れたわけでもないし、すぐ治るから」
「……でも、痛かったでしょ」
莉子は、涙を堪えて綺麗な顔を強張らせる。どこまでも澄んだ瞳に、杉崎の影が映っている。
彼女の純粋さに救われている。彼女の清く美しい愛が、杉崎の傷を癒す。古い傷も、生傷も、ぽっかり空いた胸の穴も、欠落した倫理観も。全ての痛みが、彼女の前では平等に和らぐ。
荻野を莉子に近づけたくないと思った。あいつのにおいが移ると思った。煙草のにおいや精液のにおいが、莉子を穢すと思った。でも、本当は違ったのだ。
血泥に触れて思い出した。あいつのにおいは、血のにおいだ。懐かしい、人殺しのにおいだ。同じにおいが、杉崎にも流れている。だから本当は、杉崎の存在こそが、彼女の清純さを損ねている。
「これあげる。ブランカの抜け毛」
莉子が、小さなジッパー袋を取り出した。杉崎と荻野にそれぞれ渡す。莉子の私物でよく見かける、黒いうさぎのキャラクターがプリントされていた。
「抜け毛?」
「うん。早くよくなるようにって、お守り」
「なんで抜け毛なんだよ」
半透明なジッパー袋を光にかざして荻野が言うと、「ブランカは不死身だから」と莉子が自信満々に答えた。
「お母さんが死んじゃった後、ブランカも急に元気がなくなって、もう長くないかもしれないって、お医者さんに言われたんだ。でも、今も元気に生きてる。お母さんが、私が寂しくないように、ブランカだけは生かしてくれたのかなって、今でもちょっと思ってるんだけど、でも、ほんとにすごいのはブランカの生命力だから。二人にもお裾分け」
ここへ来て初めて、莉子は明るい笑顔を見せた。杉崎はジッパーを開けてにおいを嗅ぐ。お日さまの匂いがした。
「……ありがとね。大事にする」
「裏も見てみて」
ジッパー袋を裏返すと、別のキャラクターが印刷されていた。
「この子は?」
「その黒いうさぎとピンクのうさぎは、会うとケンカばっかりしてるけど、本当は一番の仲良しなんだ。二人にちょっと似てるかなって」
「……」
莉子の言葉に、杉崎は荻野を見た。荻野は、一瞬だけ杉崎に視線を寄越し、目を伏せた。
「似てねぇよ」
「そうかなぁ」
「目もこんなにデカくねぇ」
「んもう、見た目の話じゃないってば」
皮肉っぽく言いながらも、荻野は莉子にもらったお守りを見つめて、微笑んだ。そこには愉悦も狂気もない。内側から滲み出るような、穏やかな微笑だった。
莉子が帰ると、病室は静寂に包まれる。荻野が入院しているのは、一般的な四人部屋だ。隣は空床、向かいのベッドに中年の男、斜向かいにはさらに年配の男が、それぞれ入院している。田舎の男にありがちな朴訥さゆえか雑談を交わすこともなく、基本的にはそれぞれカーテンを閉めて過ごしている。
「あの時の質問に答えてやろうか」
杉崎が言えば、荻野は瞑っていた目を開き、ベッドを起こした。
「……俺は、人を殺したことがある」
「……」
「でも、あの雑誌に書かれていたことは正しくない。確かに俺は、あいつらを殴り殺しはしたが……」
脳裏に過る、黒い大きなゴミ袋。生臭い血肉のにおい。真っ暗な穴の底にぽつりと残された、茶々の──
嘔気を覚え、杉崎は喉を押さえた。脂汗が滲み出る。動悸が呼吸を圧迫する。眩暈に襲われ、重力の在処を見失う。
「理由があったんだろう」
荻野が言った。杉崎は口元を押さえて顔を上げる。
「殺すに値する理由が……“あいつら”とやらに、殺されるに値する理由が」
「……でも、だからって……」
「普通のことだ。おれもお前も同じ。理由があれば人を殺せる。それが人間ってやつだろう。何もおかしくないはずだ」
「……」
「お前だって、人を殺して得たものがあったはずだ。何も間違っちゃいない。おれはおかしくない」
「得たものなんか……」
何もない。もう何も残っていない。ただこの身一つ、命一つがあるだけだ。全部を壊して、全てを駄目にしてしまった。けれども、たった一つ、手に入れたものがあるとするならば──
「なんで、本当のことを黙ってるんだ」
杉崎が言うと、荻野はわざとらしく小首を傾げた。
「何の話だ」
「怪我の原因だよ。俺にやられたと言えばいい。それで」
「てめぇを警察に突き出すってか。冗談じゃねぇ。誰がそんなつまらないことを」
「つ、つまらない? ってことはねぇと思うけど」
「前にも言ったろ。おれはてめぇの凶暴性を買ってんだ。てめぇのキレた面が見たかったのさ。お前、おれを殴って血まみれになりながら、笑ってたぜ」
「……マジで?」
「ああ、いい面してた。うっかりハマっちまいそうなくらいにはな」
「異常者……」
「てめぇに言われたかねぇよ」
血のにおいに興奮するのも、暴力に晒されて悦ぶのも、どちらも等しく狂っている。だからこそ、離れられない。
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