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第七節 白いベッド

 入院生活は、独りでは立ち行かない。洗濯物の交換や、日用品の差し入れ、暇潰しのための娯楽提供など、家族の支えがあってこそ、患者は治療に専念することができる。杉崎は荻野の家族ではないが、入院生活のサポートを全面的に行っていた。  罪滅ぼしのつもりではない。他にできる人がいないのだから、杉崎がやるしかない。もちろん、莉子は頻繁に見舞いに来たし、蓮見も、仕事の融通を利かせるという形で協力してくれた。   「見ろよこれ。裏山に咲き始めた」    春を告げる福寿草の花を、数本手折って持ってきた。「たまにはお花くらい持っていけば?」という莉子の助言があったことは伏せておく。   「ほら、かわいいじゃん。縁起もいいし」    花瓶に挿し、窓辺に置いて日に当てる。明るく鮮やかな花びらが、春の日差しに調和する。   「水が腐る前に持って帰れよ」 「えー、ちゃんと世話するよ? 明日も来るし」 「んな毎日来なくていい。うるさくて休めねぇだろ」 「休むったって、どうせリハビリと昼寝しかしてねぇじゃん」 「リハビリが疲れんだよ。結構痛ぇし」 「そりゃガマンするしかねぇなぁ。腕動かなくなったら困るだろ」 「……ガマンと言えば……」    荻野は杉崎を一瞥する。ギプスの端に覗く右手の指を動かす。   「腕が不自由なもんで、最近はガマンばっかりだ」 「はあ」 「てめぇもだろ。都合のいい穴がねぇもんで」 「……」    荻野が何を言いたいのか、杉崎はようやく理解する。   「……病院だよ?」 「だから何だよ。どうせこの後予定もねぇ」 「いやいや、あり得ないから」 「どうせ耳の遠い爺さんしかいねぇんだ。やるなら今だぜ」    荻野は杉崎の右手を掴むと、布団の中へ引き入れた。作務衣タイプの入院着の胸元をはだけて、肌を見せる。   「なぁ、疼くんだよ。もう何週間ヤッてないと思う」 「知るかよ……」    ズボンをずらし、下着の上から触れたそれは、既に熱を持ち始めている。荻野はわざとらしく吐息を漏らす。   「は、ぁ……やっぱいいな、お前の手」 「てめぇ、マジで覚えとけよ」    こうなればヤケだ。こうなった荻野を理性で引き止めるのは困難である。説得を試みるよりも、即物的に満足させてしまった方が結果的に早いということを、短い付き合いの中で杉崎は学んだ。   「声出すんじゃねぇぞ」 「だれにモノを言ってんだ」 「いや、お前声でかいじゃん」 「……でかくねぇ」 「でかいって」 「べつに、挿れて突かれるから勝手に声が出るだけで、普通に抜くだけならなんとも……」    布団の中、手探りで下着をずらす。熱に直接手を触れると、荻野は息を呑んだ。ぴく、と微かに腰が浮く。   「っ……」 「なんだ、ホントに一回も抜いてねぇの」 「っせぇな……そう言っただろ」 「ふーん……すげぇぬるついてきた」    先走りがだらだら零れる。先端に塗り付けながら扱いてやる。くぐもった水音が性感を煽る。   「ぁっ……んん……」    荻野はうっとりと目を瞑る。左手がはだけた胸元に伸びる。指を使って胸を揉み、薄い乳首を爪で引っ掻く。鼻にかかった甘い声を、途切れ途切れに漏らす。   「っ、ふ……ン、ぅ……っ」 「俺の手、そんなに好き?」    杉崎が言えば、荻野は薄く目を開く。首を横に振って、悔しそうに唇を噛む。  右腕の骨折、右肩の脱臼に加え、右目と右頬、顎の骨も折れている。頭に巻いた包帯が、顔の右半分を覆っている。さらに下顎を支えるように、輪郭に沿って包帯がぐるりと巻かれている。  包帯の影に、快楽に溶けた瞳が覗く。昏い夜の底のように、黒々として果てがない。かつてと何も変わらない。左目が恍惚と細められる。   「ンあ゛…っ!」    思いがけず嬌声を発する。荻野ははっとして口に手をやった。左手の親指を、血が出るほど噛みしめる。  杉崎は、血の滲む荻野の左手を絡め取った。指を絡めて握りしめ、血の味がする唇を塞ぐ。控えめに開いた口に舌先を滑り込ませ、深いところまで突き立てる。  仄かに鉄の味がするのは、荻野の口内が炎症だらけだからだろうか。骨折のせいか、手術の痕か、それとも、治療の一環で口内に張り巡らされていたワイヤーのせいだろうか。顎の動きを制限して骨の癒合を促すためのものだが、器具の突起が口腔粘膜を傷付ける。  荻野は、大きくは開けない口を目一杯広げて、乱暴にねじ込まれる舌を必死に受け入れる。凸凹とした口内炎を舌先で突つかれると、嫌がって身を捩りながらも杉崎の舌に吸い付いて、自身の舌を絡ませる。  そろそろ限界が近いらしい。握りしめた性器が熱く脈打っている。この熱が、荻野の心臓そのものだ。杉崎が強く右手を動かせば、荻野は腰を震わせて悶える。キスで口を塞いだところで、僅かな隙間から漏れる声は覆い隠せない。その声が、いよいよ甘さを増してきている。   「ぁ、ふ……ッ、ん、ンンっ──!」    甘い声に唇を濡らしながら、果てた。びくん、と自由にならない体を震わせ、電動ベッドを軋ませた。右手に熱く湿った感触を覚え、杉崎は慎重に手を引いた。  荻野はくたりとベッドに沈む。はだけたままの胸が、激しく上下している。色素は薄いが艶があり、ほんのりと膨らんで見える乳首に、杉崎がそっと指を這わすと、荻野はまた、びくりと体を痙攣させて、杉崎を睨んだ。「さわんな」と喘ぎ交じりに囁く。   「ゴメンって」 「はっ…、待ちきれねぇってか」 「いやそういうわけじゃ──」    ズボンを押し上げ始めていた杉崎のそれを、荻野は乱暴に握りしめる。留め具を外し、下着の上から形を確かめるように揉む。  荻野の言う通り、ここしばらくご無沙汰である。都合のいい穴が手元にないのはもちろんのこと、忙しさにかまけて処理を怠っていた。元々二日と置かずにまぐわっていた反動が、今一気に押し寄せている。   「おいやめろって」 「あ? 今更なんだよ。おれのことはイかせたくせに」 「俺はいいんだよ。帰ってから自分でやるから」 「へぇ。案外一人でも平気なんだな」    不慣れなために、左手の動きがぎこちない。力加減が難しいのか、触り方がもどかしい。下着をずらして直接触れても、決定打に欠けるぎこちなさだ。焦れったくて仕方がなく、いっそのこと自分で擦って出してしまおうか、と杉崎が考えた時である。  病室のドアが開いた。杖を引きずる足音が近付いてきて、向かいのベッドに座った。カーテンを引く音がして、一瞬の静寂の後、杉崎はようやく安堵の息を漏らした。   「ほら、いいだろもう。終わり終わり」    いそいそとズボンのボタンを留める。不満そうに鼻白む荻野をよそに、杉崎は精液にまみれた右手を拭いた。  ナースステーションの手前に談話室がある。ソファやテーブルが整然と並び、本棚や電子レンジ、自動販売機が設置されている。カップタイプの自販機で、杉崎は荻野の分もコーヒーを買い、席についた。   「ほらよ。ぬるめでうすめのブラック」 「……」    カップを受け取り、荻野は訝しげににおいを嗅ぐ。   「ぬるいのはいいが、薄くとは言ってねぇぞ。麦茶かこれは」 「病人がなに言ってんだ。カフェインは体に障るぜ」 「コーヒーくらい好きに飲ませろ」    呆れたように言いながら、カップに口をつける。あちっ、と舌を出して顔を顰めた。   「全然ぬるめでもねぇし」 「俺のと比べればちゃんとぬるめだと思うけど?」 「お前のは、なんだそれは。白濁してんぞ」 「オイ、食欲失せること言うんじゃねぇよ。ミルク多めのカフェラテにしたの」 「ははっ、相変わらずの子供舌だな」 「俺はこれが好きなの! お前こそ、ドがつく猫舌のくせに」    コーヒーのにおいで思い出す。莉子と三人でかまくらを作った日のことを。   「今度また、莉子ちゃんにコーヒー淹れてもらおうぜ」 「カフェインは体に障るんじゃなかったか」 「退院したらに決まってんだろ。おいしかったよな? 莉子ちゃんのコーヒー。かまくらで飲むのも楽しかったし。けど、退院する頃は雪なくなってるかも」 「普通に部屋ン中で飲みゃいいだろ。何だってわざわざ寒い中で……」    コーヒーを冷ましながら少しずつ飲んでいた荻野は、ふと、何かに気づいたように、杉崎の背後に視線をやった。  黒い瞳が見開かれる。これまでに見たことのない表情で、硬直した。まるで幽霊でも見たかのように。   「兄さん!」    杉崎の背後で声がした。杉崎は急いで振り返る。と同時に、荻野が呟く。   「誠一郎さん……」    抑揚のない声。無表情よりもさらに無に近い表情。紙カップを握る指先が白い。  今まで何をしていたんです、こんな怪我までして、私がどれだけ心配したか、というようなことを、男は早口で捲し立てた。杉崎の姿など視界にも入っていない、荻野のことしか見えていない様子だった。「誠一郎さん、ここじゃ何ですから……」と荻野がやっとのことで口を挟み、二人は別の場所へ移動した。  コーヒーがすっかり冷め切っても、荻野は戻ってこなかった。薄くて冷たい、苦いばかりのブラックコーヒーを、杉崎は息を止めて飲み干した。  帰り際に再び談話室を訪れた男に、挨拶された。「先程はすみませんでした。取り乱してしまって」と詫びる姿は丁寧そのものだった。「明日また改めて伺います」と言って去っていく後ろ姿を最後まで見送らず、杉崎は病室へ駆け込んだ。  白い病室、窓際のベッドに、荻野は腰掛けていた。杉崎がカーテンを開ければ、すぐに気づいて振り返る。   「悪かったな、追い出しちまって」    斜陽が窓を赤黒く染める。   「あれはおれの弟だ。腹違いのな」    遠坂誠一郎(とおさかせいいちろう)。荻野の腹違いの弟。失踪した兄を探し、ようやく見つけ出したのだという。   「だからって、いきなり病院まで来ねぇだろ」    疲れを丸ごと吐き出すように、荻野は溜め息をつく。くしゃりと髪を掻き上げる。癖になっている仕草の一つだ。   「お前も帰れ。面会時間は過ぎてるぞ」 「……弟さんは、お前を迎えに来たのか」 「さぁな。あの人の考えることは分からん。いいから帰れ。続きは明日だ」 「……俺、明日も来るからな? 福寿草の世話しなきゃいけねぇし。お前どうせ枯らすだろ」 「……勝手にしろよ」    しかし明日は来なかった。話の続きはできなくなった。こんなことになるのなら、病室だろうが何だろうが気にせずに、最後に一発ヤッておけばよかったと、空になったベッドを見て思った。しかし、今更悔いても後の祭りだ。荻野は病院を脱走し、姿を消した。

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