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第二節 血縁
山奥の寒村から、再び都会へ戻ってきた。丘の上に建つ白亜の邸宅は、一際周囲の目を引いた。
「はじめまして、兄さん」
誠一郎は、一級下の弟だった。初めて顔を合わせた時から、屈託のない笑顔で偲を兄と慕った。血縁上の父であるはずの男も、彼の妻である遠坂夫人も、偲と目を合わせようとはしなかった。
「あの豪邸に住んでるの? それじゃあお前、お坊ちゃんだ」
転校した先の学校で、クラスメイトにそう言われた。
「でも名字が違うじゃん。それに、あのお屋敷には前からお坊ちゃんが住んでたよ?」
「坊ちゃんは坊ちゃん学校に通ってろよ。なんでこっちの学校来たわけ?」
誠一郎は、私立の中高一貫校に通っている。偲は、学区内の公立中学に通っている。
「あそこの社長って、昔から女好きで有名らしいよ。ほら、根っからの“ボンボン”だから」
「へー、じゃあアイジンに産ませた子なんだ。だから名字も違うってこと? 結婚できなかったから」
「なぁ、お前の母ちゃん、あの社長の愛人だったの?」
愛人の子だから。水商売の女だから。だから捨てられたんだ。不潔だの、可哀想だの、口々に勝手なことばかり。伏し目がちに、黙って話を聞いていた偲は、正面にいた男子生徒の胸倉を掴んだ。言いたい言葉は、喉でつっかえた。
田舎を捨てて、芸の道を志した。母は芸者だった。白粉を塗り、紅を差し、粋な着物で着飾って、三味線を弾き、唄を歌う。田舎を捨てなければ出会うことのなかった華やかな世界で、女を売って生きていた。
父は、大手製薬会社の三代目。生まれながらの御曹司だ。元芸者の愛人と、その間に産まれた息子は、疎ましかったに違いない。本妻との間に子ができると、母はあっさり捨てられた。父と暮らすために選んだ部屋を、父が訪れたことは一度もない。
女を売って生きていた母は、愛した男の愛人にすらなれなかった。母の様子が少しずつおかしくなっていったのは、まだ偲のおむつが取れる前のことだった。父の帰らない部屋で、父の帰りを待ち続け、窓の向こうを眺めていることが多くなった。母の顔を、もうぼんやりとしか思い出せない。
「お前さ、あの坊ちゃんはどうやって手懐けたわけ」
校門の前に、黒塗りのセダンが停まっていた。その時はちょうど掃除の時間で、偲は窓を開けて黒板消しを叩いていた。
「あっちはホンモノのボンボンなんだよな? お前みたいなアイノコと違って」
白い粉が舞って、紺の制服をまだらに汚した。弟が、後部座席から身を乗り出して手を振るのが見えた。
「おいこら、なにダンマリしてんだよ。愛人のガキがエラそうに」
あれは、弟の送迎用の車だ。雨だろうが嵐だろうが、偲は自転車で通学している。兄弟間で待遇に差があることに、弟は反発している。たとえ父の決定であっても。だからああやって、時間さえ合えば迎えの車を寄越してくる。しかし、弟がいくら気を回そうと、偲の部屋は日当たりの悪い北向きの物置だし、習い事の一つもさせてはもらえないし、荒れた公立校に通い続けている。
「どうせ媚び売って取り入ったんだろ。血は争えねぇってか」
「それしか能がねぇもんな。母親とおんなじで」
「父親にも色目使ってんの? 愛人の代わりにするために引き取ったって聞いたけど」
「センコーにも媚び売ってんだろ。山下のやつ、えらい贔屓するもんな」
「なぁおい、聞いてんのかよ。何とか言えや。その口はお飾りか?」
紺の制服に泥がつく。靴の跡がくっきりと残る。
初日の態度が最悪だったためか、あるいはもっと単純に、悪目立ちする出自のためか、偲は学校で孤立した。あっという間に、スクールカーストの枠外に置かれた。無口で陰気で表情に乏しい、無愛想な転校生を気にかける物好きはいなかった。
「つーかさぁ、これっぽっちしか持ってないって、どういうこと?」
弟には用があると言って帰らせた。今頃は塾の机に齧り付いていることだろう。同じ時間に、兄が校舎裏でカツアゲされているとは、まさか夢にも思うまい。
「これっぽっちの金で、どうしろってんだよ」
胸倉を掴み上げられ、殴られた。唇が切れて血が滲む。
「何のために弟ンとこ行かせたと思ってんだ。あのボンボンから金毟り取ってくるのがてめぇの仕事だろうが。男に媚びるのは得意だろ。弟のケツでも何でも舐めろよ」
「……んなの、意味ねぇ」
「ああ? はっきり喋れや。いちいちムカつかせんな」
投げ飛ばされて、尻餅をついた。偲は、切れた唇を拭って相手を見上げる。
「おれが弟に泣き付いて、それで困るのはてめぇらの方だろ。考えるオツムがあるなら分かるはずだ」
「てめぇ、」
「その程度も分からねぇから、山下はおれを贔屓するんだろ。おれ程度でも、この肥溜めじゃマシな方だから」
腹部に重い衝撃が走る。鈍い音がして、塩辛い反吐が逆流した。
「調子づいてんじゃねぇぞ、商売女のガキが」
二発、三発と、続けざまに拳や蹴りを叩き込まれる。立て続けの激しい殴打に息もつけない。重力の方向を見失い、偲は地面に這いつくばった。
「てめぇの立ち位置ってやつを、もっぺん一から教えてやるよ。てめぇごときが、口答えしていいわけがねぇんだ」
地面に伏せて、何度も咳き込む。逆流した胃酸に、喉が潰れる。舌が焼かれる。鼻の粘膜が痺れていく。血と吐瀉物が混ざり合った酷いにおいに、感覚が馬鹿になった。
「なぁ、オレらにも媚びてみろよ。泣きながら靴でも舐めてみろ。それくらいできんだろ。母親は、男のチンポしゃぶって生きてんだからな」
「……」
「んだよ、その目は」
睨み付けると、再び腹を蹴り上げられた。
誰かが、偲の頭を掴み上げる。口の中がざらざらするのは、あちこち切れているからだ。口の中がぬるつくのは、血と吐瀉物が混ざり合っているからだ。前が見えないのは、顔が腫れているからだ。
うわマジかよ、と誰かが言った。きったねー、と下品な笑い声が響く。偲は、腫れた瞼を必死に開いて、相手を見た。ぬるついたものを、口の中にねじ込まれた。
なんだ、結局こうなるのか。いやに冷静にそう思った。相手は、不良グループの太鼓持ち。どちらかといえばお調子者の男子生徒が、暴力的な興奮に目を血走らせていた。偲の頭を押さえ込み、腰を振る姿は滑稽に思えた。
自分は、結局こうなる運命らしい。暴言に始まり、窃盗、恐喝、そして暴力。しかし、それだけでは飽き足らないのが、男という生き物らしい。凌辱により屈服させるのが、男にとっての至上の悦びなのだろう。
泥だらけの制服。シャツまで血まみれ。胃液と精液が混ざり合って、傷に沁みる。奥歯に何かが挟まっている。引き抜いてみれば、陰毛だった。
一度こうなってしまえば、尻を犯されるのも時間の問題だった。呼び出される場所は、校舎裏から空き教室、旧校舎の便所へと、より人目を避けた場所へと移っていった。放課後だけでは飽き足りず、夜の公園だとか、適当な廃屋へと呼び出されることも増えていった。
「兄さん」
夜の九時を回る頃。家に帰ると、弟が玄関で待っていた。
「こんな時間まで、どこで何をしていたんです」
弟を無視して通り過ぎようとすると、腕を掴まれた。
「兄さん、きちんと話してください。私は心配で言っているんですよ。家政婦さんだって、兄さんを心配して」
遠坂家では、執事や家政婦、庭師に専属ドライバーなど、複数の使用人を雇っている。偲の帰りが遅いせいで、いつまでも仕事が終わらずに休めないと嘆いているのを、偲もこっそり聞いて知っている。
「……別に、何でもありませんよ。誠一郎さんのお気を煩わせるほどのことじゃありません」
「気にしますよ。私が何も気づいていないとお思いですか。帰りの遅い時にはいつも、体のどこかを庇っていますね。今だって、足を引きずっておられます。どこか怪我をなさっているんでしょう」
「……」
家政婦が心配しているのは、自分の仕事が長引くことだ。父は偲に何も言わない。夫人は、偲の前に姿を見せない。同じ家に住んでいるはずなのに、とてもそうは思えない。食事は偲だけ別室で取り、バスルームを使えるのも一番遅い時間と決まっている。
「本当に、大したことじゃないんですよ。これくらい、中学生なら普通のことです。お上品な学校へ通っている誠一郎さんには、縁のない話かもしれませんが」
どうしてもと食い下がる弟に折れて、偲は渋々服を脱いだ。体のあちこちに散らばる打撲痕に、弟は悲痛な表情を浮かべた。
「……普通、なんですか? これが……」
「ええ。男子なら殴り合いの喧嘩くらいするものでしょう。おれだって、やられるだけじゃありませんから。庶民はみんなこんなものですよ」
「……しかし、これはあまりに……」
その日は、弟に傷の手当をされた。ほったらかしてもそのうち自然と治るのだから必要ないと偲は言ったが、弟はどうしてもと言って引き下がらなかった。
父に呼び出されたのは、それから数日後のことだった。弟が、自分が通っているのと同じ学校へ偲を転校させるようにと、父に迫ったのだという。そのことで、父の書斎に呼び出された。二人きりで話すのは、初めてのことだった。
弟に妙なことを吹き込んだのか、と父は言った。偲はいいえと答えた。弟と同じ学校へお前を行かせるつもりはない、と父は言った。編入試験を通過できる見込みがないとも。偲は、分かっていますと答えた。
「誠一郎がお前の何を気にしているのか知らんが、あまりあいつの手を煩わせるな。自分のことは自分で解決しろ。以上だ」
端から、弟と同じ学校へ編入するつもりはなかった。しかし、弟の気を煩わせないようにしなければならないとなると、今とはやり方を変えなければならないかもしれない。帰りが遅くなったり、目立つ場所に怪我をするのはもってのほかだ。聡明な弟を欺くのも楽じゃない。
「おいやべーよコイツ。自分からチンポしゃぶってやがる」
足りない頭で考えて、捻り出した答えがこれだった。凌辱される前に、相手を満足させればいい。無理やりねじ込まれる前に、自ら男の性器を咥える。
「ド変態のド淫乱野郎じゃねぇか。オラオラ、もっとうまそうに咥えろよ」
顔を殴られるよりは、イラマチオを強要される方がマシだ。口を塞がれても、両手が空いている。自ら誘って、性器を握り込んだ。
「はああ? んだコイツ、とうとう頭イカレたか? 頭に精子詰まってんの?」
口汚く罵る男の性器を、強く吸って喉で扱く。あっという間に、白濁を散らした。顔面に浴びたそれを舐め取ると、別の男が正面に回り、偲の頭を強く掴んだ。上の口と下の口と、同時にねじ込まれた。
「ははあ、コイツ、フェラしながら感じてんのか? すげぇ締まるぜ、このケツ穴」
体育倉庫からかっぱらった、カビ臭いウレタンマットを軋ませて腰を振る。歩く度に埃の舞う、旧校舎の空き教室で。建付けの悪いガラス窓に差し込む夕日が、血のように赤い。偲の体を濡らしていく。
「昨日まではもっと嫌がってなかったっけ。一晩でメス堕ちしちゃった?」
「もうとっくに堕ちてただろ。口では嫌がってても、チンポ大好きだったもんな」
「血は争えねぇってか。ケツ掘られてイキ狂ってる色気違いがよ」
腰を押さえ付けられ、奥を激しく穿たれた。衝撃に口を離してしまうと、頭を掴まれて喉を突かれる。偲は険しく眉を顰めつつ、喉を開いて迎え入れる。嘔気をやり過ごす術を、いつの間にか身に付けていた。
男を悦ばせるために、何でもやった。騎乗位で腰を振る。正常位で足を絡ませる。キスをねだる。後背位で突かれる時は、積極的に手淫や口淫を施した。一度に複数人を相手にして満足させてしまえば、こちらの消耗は少なく、早めに解放されるはずだった。
実際、この目論見はある程度は成功した。ある程度、というのはつまり、誤算が大きかったということである。
男を満足させるため、より従順に、より淫蕩に振舞った。しかしいつしか、どこまでが演技でどこからが本来の自分なのか、分からなくなっていった。
お前の好きなものをくれてやる、と言われて、尻を犯される。喉を犯される。放たれた精液を飲み下す。腹の底が澱んでいく。これが好きなんだろう、と言われると、なんだかそんな気がしてくる。元から、淫乱の変態だったような気がしてくる。これが、本来の自分の姿のように思えてくる。
尻軽の淫乱がいるという噂は、校外にも広まっているようだった。怖いもの見たさから冷やかしに来た男の相手を、何度もしたことがある。男にまたがっている姿を、性器を咥えて精液まみれになっている酷い姿を、写真に撮られたこともある。誰かに話したらバラ撒くからな、という脅しのつもりだったのだろうが、偲は誰に話すつもりもないし、話せる相手もいないのだった。
分かりやすい怪我をすることは減った。いつも着替えを持って歩き、体の汚れは外の水道で落とした。冷たい水で顔を洗い、濡らしたタオルで髪を拭くと、気持ちだけはすっきりした。ただ、腰は常に怠く、それを庇ってぎこちない歩き方をする癖がついた。腰回りや太腿、悪い時には手首にも、誰かの手の跡が残るようになった。弟は、何も気づかなかった。
住む世界が違い過ぎた。偲が傷付いているのはシンプルな暴力によるものだと、弟は素朴に信じていた。血を分けた兄が、男性器を尻に受け入れて、複数人にマワされて、善がり狂っているなどとは、まさか夢にも思わないのだ。
同じ種から生まれたのに、別の胎で育っただけで、人はここまで違う生き物になれるものなのか。弟とは、見えている世界が違う。住んでいる世界が違う。何もかもが、絶望的なまでに違っていた。
こうなることは、きっと生まれた時から決まっていた。不思議と、怒りはない。妬む気持ちもない。ただ、人生なんて、社会なんて、所詮はこんなものだという虚しい諦観が、偲の全てを支配していた。
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