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第四節 肉体
「偲。今度の金曜、また頼めるかな」
二人きりの社長室。男は、偲の頭を優しく撫でた。偲は、男の膝に預けていた頭をもたげ、彼を見上げる。
「あなたも酷い人だ。おれが断れないと分かっていて」
男の手が、頬を包む。唇に触れる。
「どうしてもと言うのなら、別の手段を考えるさ。ただ、先方はお前をいたく気に入ったらしくてね。お前が私の特別だからかな」
肌に触れる男の手が気持ちよく、偲はうっとりと目を細めた。
「よしてください。分かってますよ。あなたの頼みを、おれが断るわけがないでしょう。その代わり、うまくいったらいっぱい褒めてくださいね」
「もちろんだとも。何がほしいか、よく考えておきなさい」
「そうですね。まず手始めに……」
偲は、男の手を握り、指を絡める。
「キスしてください」
「こらこら、今したばかりじゃないか」
「いいでしょう、景気付けに。あなたの、好きなんです」
正面から向かい合い、男の膝に乗った。彼の首に手を回す。彼も腰を抱き寄せてくれる。舌を絡めるキスをした。
この社長、長嶋 は、偲が今までに寝たどんな男よりも、体の相性がよかった。それに何より、顔が好みだった。四十を過ぎているのに肌艶がよく、豊かな髪は黒々として、体臭は薔薇に似ていた。顔だけでなく所作にも品があって、どことなく高貴な印象を与えるのだった。
長嶋は、偲を大層かわいがってくれた。基本的には現場に出ていることが多い下っ端の平社員を、接待の場へと連れ回した。ゴルフもオペラもコンサートも、長嶋に連れられて、偲は初めて体験した。
お座敷遊びまで覚えてしまった。日本髪を結った娘が、扇を片手に舞う。小粋な唄に、三味線をつま弾く姿に、母を思った。
母もいつかは、この華やかな花柳界で、蝶よ花よと愛でられていたのか。そんな時があったなんて、とても信じられない。父と出会い、恋に落ちて、全てが狂ってしまった。
「キミ、先生にお酌を」
社長が言った。言われた通り、偲は接待相手に酌をする。
この男は、人前では偲に甘い顔をしない。ひどく他人行儀で、ぞんざいに扱うのだ。この二面性を、偲は気に入っていた。これこそが、“特別扱い”なような気がして。
料亭を後にして、偲は黒いハイヤーに乗り込む。社長とは別の車だ。隣の座席には、接待相手の偉い先生。具体的にどこの誰なのかということを、偲はよく知らない。社長が先生と呼んでいたから、真似ているだけである。
発進した車がどこへ向かうのか、到着する前から分かっていた。一等地に建つ老舗ホテルのスイートルームで、男と二人で飲み直すことになった。
「キミは、遠坂製薬の御曹司だそうだね」
ルームサービスで運ばれてきたウイスキーをロックグラスに注ぎながら、男は言った。偲は、営業用の愛想笑いを浮かべて、かしこまった。
「社長からお聞きになりましたか」
「いや、こちらで調べさせてもらったよ。すまないね。不愉快に感じたならば謝ろう」
「いえ。私は元々、あの家の人間ではありませんので」
「……どうやら複雑な事情があるようだが」
グラスを軽く傾ける。氷の溶ける音がする。男は偲をじっと見つめた。
「キミのその、憂いを帯びた表情に惹かれたんだ」
偲はにこりと笑い、光栄ですと答えた。
「遠慮しないで飲みなさい。あの場では気を張っていただろう。今はもう楽にしていいんだから」
いただきますと一言言って、偲はグラスに口をつけた。かあっと喉が焼けるように熱くなる。この感覚は、いまだに慣れない。
ああ、と上調子な声が響く。もっとほしい、やめないでと、みっともなく泣いて縋る声。これがまさか、全て自分の声だなんて。
「全く、何がほしいか考えておけとは言ったが、まさかここまでとは」
呆れたように言った長嶋の髪を握りしめて、偲は腰を突き出した。
「まだ、はなさないで……もっとください、ほしい……っ」
「今日はずいぶんと欲しがりだな。ふやけてしまっても知らんぞ」
「いい、んです……ふやけるまで、してください。いっぱいほめてくれるって……」
「そうだったな。今日は、偲のわがままにとことん付き合う約束だ」
吸われ過ぎてくたくたになった性器が、再び口内へ絡め取られる。後ろの穴には、指が三本収まって、それでもまだ余裕がある。唾液とローションをたっぷりと塗りたくられて、掻き混ぜられて、穴が閉じなくなっている。
社長室から一室隔てた隣の部屋は、自宅とは別の、長嶋の生活スペースとなっている。元々は、激務ゆえに会社へ泊まり込むことが多かったために作られたスペースらしいが、今ではすっかり、逢瀬の間と化している。
「ああだめ、いきます、いくっ、いっちゃ、うぅンッッ──!」
激しく腰を弾ませ果てた。前から何かが溢れ出ている。長嶋の喉が上下する。それを見て、また体が熱くなる。
「ごめっ、なさ……くちに、だして……っ」
「構わないさ。かわいいお前の出したものだ」
「っ、はは……相変わらず、お上手ですね」
「そろそろ私ももらっていいかな」
「ええ、どうぞ。全てあなたのものです」
あられもなく足を広げる。空っぽの器を満たす熱いものに、偲は悦びの涙を流す。
先日相手をしたあの男。中央官庁の役人だと、後になって聞かされた。雰囲気だけは長嶋に似ていた。歳がいっているわりに品があって、都会的な雰囲気で。しかし、セックスはからきし駄目だった。つまらないセックスをする男だった。お愛想で喘いでやったのがよくなかった。高めるだけ高められた熱を、偲はついぞ発散することができなかった。
「もッ、あ…っ、もっと、くださいっ…! おくにもっと、もっといっぱい……っ」
「あまりやると、後で痛いと泣くだろう」
「いたくても、いいからっ……あなたで満たされたいんです。あなただけに、満たしてほしい……!」
「かわいいことを言ってくれるね。やはり私の目に狂いはない。お前は私の特別だよ」
空っぽの器を、白く濁った体液が満たす。絶頂の果て、快楽に身を委ねて、偲は心地よい眠りにつく。
目が覚めた時、ベッドに長嶋の姿はなかった。今日もまた、社宅へ帰らず、社長の私室で夜を明かしてしまった。
シャワーを浴び、身なりを整え、社長室へ顔を出す。長嶋はデスクに向かい、書類仕事を片付けていた。
デスクの隅に、写真立てが置かれている。それを見て、長嶋が時折微笑んでいるのを知っている。
「全く、社長も罪な男ですよ」
現場での昼休憩中、煙草をふかして偲はぼやいた。テーブルを挟んだ向かいに座る、現場監督の中井課長は、面倒くさそうに顔を顰めた。
「その手の愚痴をオレに振るな」
「冷たいなァ。おれとあんたの仲でしょう」
「お前と深い仲になった記憶はないが」
「だってねぇ、こんな話、あなたにしかできないじゃないですか。社長とは古い付き合いなんでしょ。くだらん愚痴くらい聞いてくださいよ」
「巻き込まれたくないんだよ……」
長嶋が時折愛おしそうに見つめる写真に誰が写っているのか。社内の者なら誰でも知っている。
「今度また、お子さんが生まれるそうじゃないですか。三人娘で、ご自宅はさぞ賑やかになるでしょうねぇ」
皮肉な笑顔で言った偲に、中井は煙をたっぷり吹きかける。
「結構なことじゃないか。家族を増やして、会社もどんどん大きくして、おかげでオレ達は食いっぱぐれずに済んでいるんだからな」
「ははっ、社長の辣腕に感謝ですか」
偲が社長のお気に入りであることは、社員の間では共通認識になっている。一方、会社の拡大のため、偲があちこちでその身を差し出していることは、極々一部の者しか知らない。中井は、その数少ないうちの一人である。
「お前、妙なことは考えるなよ」
「まさか。何も考えちゃいませんよ。おれは、母親のようになるつもりはありませんから」
家庭のある人間を愛した。当然のように恋に破れ、それでも愛を捨てられず。その愛執が、やがて心身を蝕んだ。帰るはずのない人の帰りを待ち続け、何もない空をぼんやり眺めて時が過ぎる。少しずつ、心が現実を離れていく。だんだん歩調が狂っていく。
「だけどやっぱり、罪な人じゃあないですか。おれを愛していると言ったその口で、体を売らせるんだから」
「……オレが言うのも何だが、お前、こんな会社辞めた方がいいんじゃないか」
「イヤですよ。おれは社長のお気に入りだし、おれもあの人の顔が好きなんでね。ああいや、もちろん体も好きですがね」
「そういうところだぞ」
「ええ。でも、だからいいんです。社長もね、口ではああ言ってますが、結局今だけなんですよ。愛だの恋だの、確証のないあやふやなものに縋り付いて頭がおかしくなれるほど、おれは純粋じゃないんです。だったら、ヤリ目的と言われた方が、よほど納得できる」
「爛れてるな」
結局、芸者の子は芸者なのか。愛人の子は、愛人にしかなれない。それでも、母のようにはならない。愛も恋も信じていない。だから、母のようにはなれないのだ。
だけどもし、もしもいつか、何もかもを捨てて狂ってもいいと思えるほどの恋をしたら。そんな風に愛したいと思える相手に出会ってしまったら。やっぱり、母と同じように、狂ってしまうのだろうか。狂気の末に、捨てられるのだろうか。
がらりと事務所のドアが開く。荻野さんに会いたいって人が、と汚れた顔の作業員が言う。こういう時の悪い予感は当たるものだ。弟が会いに来た。
あの日の非礼を詫びたい、と弟は言った。偲は、人目を避けて事務所の裏手に回り、もう何本目になるか分からない煙草に火をつける。灰皿には吸殻の山ができている。偲の吐いた煙を浴びて、弟は咽んだ。
「詫びるって、何をです。あなたは何もしていないでしょう」
「いえ。あの日の私はあまりに酷かった。思慮に欠けていました。あなたの事情を何も知らずに、勝手なことを申しました」
「あなたが謝る必要などありませんよ。あなたが正しい。おかしいのは、おれの方なんですから」
「……しかし、兄さん。私は、家族としてあなたを」
「それで、今更おれに何の用です。誠一郎さん」
弟の言葉を、偲は途中で遮った。遠坂の家に戻ってこないか、と弟は言った。
「なんだ、そんなこと。おれはてっきり、葬式にでも呼ばれるのかと」
「兄さんの部屋は昔のままにしてあります。あの家がお嫌でしたら、近くにお部屋を借りていただいても構いません。ですからどうか、」
こんなところで働くのはやめにしてください、と弟は声を低くした。
「なぜです。おれはおれで楽しくやっていますよ。こういう仕事は性に合っているらしい」
「仕事の内容を言っているのではありません。ここの社長さんは……あくまでも噂ですが、あまりいい話を聞きません。兄さんもご存じのはずでは?」
「……」
偲はぐっと唇を噛む。煙草の量がまた増える。
「……どんな噂を聞かれたのか知りませんが、あなたにとやかく指図されたくはありませんね」
「なぜです」
「……なぜ、ですって?」
「今の環境が、兄さんにとっての本当の幸せなのですか。これが兄さんの望みですか」
「……そんなこと……」
まだ吸いかけの煙草を、偲は灰皿に押し付ける。
「だったら逆に聞きたいですね。あなたは、なぜそうやっておれをつけ回すんです。何の権利があって、おれのやることなすことにケチをつけるんです。おれの母親でも、ましてや父親でもないくせに」
「家族だからですよ、兄さん」
「そんな風に思っているのはあなただけです。あなたのお父様も、お母上も、おれを家族だなんて思っちゃいない。ちょうどいい厄介払いができて、よかったじゃありませんか。おれはずっとよそ者です。あそこを帰る家だと思ったことなど一度もない」
「けれど兄さん、私がいます。あなたは、私のたった一人の兄です」
「ええ、そうです。おれが兄だ。そしてあなたは、不出来な兄を捕まえて説教をなさる。あなたとおれとでは、何もかもが違うんです。だってそうでしょう。生まれた時から全てを手にしていたあなたと違って、おれには何もないんです」
でも、と食い下がる弟の言葉を断ち切って、偲は続ける。
「確かに、あなたを弟と思っていますよ。半分だけとはいえ、血は繋がっているんですからね。あなたのお父様は、おれにとっての父でもある。でも、それだけです。あなたを弟とは思っていますが、家族だとは思っていない。分かっていただけますか」
ここまではっきりとした口調で弟を突き放したのは初めてだった。
弟は言葉に詰まった。注意深くこちらを見つめ、兄の真意を探っていた。何か適切な表現を探して、慎重に言葉を選んでいるのが見て取れた。しかし、一向に二の句は継がれなかった。
「お帰りください。おれには今くらいの生活が身の丈に合っているんです。これ以上は望みませんよ」
「……」
「安心してください。あなたを恨んじゃいませんよ。ただ、あそこはおれのいるべき場所じゃない。別にいいじゃないですか。あなたはあなたで、ご両親とうまくやっていけばいい。おれもおれで、勝手にやりますから」
それじゃあ、と踵を返した偲の背中を、それでも、と弟の声が追う。
「それでも、私達は家族です」
「だからおれは、」
「ええ。でも、家族なんですよ、兄さん」
「……おれには、家族がどんなものなのか、分かりませんから」
家には戻らなくてもいいから、連絡だけは定期的に入れてほしい、と弟は言い、携帯番号を寄越してきた。偲は、一度も連絡を取らなかった。
弟が再び訪ねてくる前に、仕事を辞めた。夜逃げ同然に高飛びした。誰にも行先を知られたくなかった。
社長のことは気に入っていた。あの職場も居心地がよかった。誰も偲の素性を知らない。捨てた家のことも、母のことも知られていない。しがらみを離れ、自由になれた気がした。頼りになるのは己の身一つ。そんな環境に身を置くのは、それなりに快適だった。
社長を体で誑し込んだ女狐とは思われていただろう。そのために、多少の嫌がらせを受けはした。しかし、社長の庇護下にあったために、直接手を出されることはなかった。ああいう仕事が性に合っていたというのも嘘じゃない。
それでも、いずれはこうなると分かっていた。こんな仕事は、いつまでも続けられない。社長の愛人なんて、いつまでも務まるものじゃない。いつかはこうなると分かっていた。予定より少し早まっただけのことだ。
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