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第六節 故郷

 懐かしい波の音。潮の香り。再開発が進んで、高台からも海は見えない。母と暮らしたアパートには、知らない家族が住んでいる。   「おい」    砂利を踏む足音が近づいているのに気づいていた。背後から呼びかけた声が誰のものか、顔を見ずとも分かっていた。   「帰ろうぜ」    杉崎の言葉に、偲は振り向かず答える。   「よくここが分かったな」    坂を上った先にある、小さな空き地。ガードレールにもたれて町を見下ろしていた偲の隣に、杉崎が立つ。   「前に話してただろ。海の見える家で育ったって。ちょっとした高台にあって、波の音が聞こえたってさ」    偲は乾いた笑い声を漏らす。   「信じたのか。大体、その程度の情報でここまで辿り着けるか。全国に同じような土地がいくつあると思ってんだ」 「でも、辿り着いただろ」    何でもないことのように杉崎が言う。一瞬の沈黙が気まずく、偲は深く煙草を吸った。   「……それにさぁ、お前っていつも嘘ばっかだけど、意味のない嘘は言わねぇじゃん。だから、もしかしてって思って」    杉崎が無言で手を差し出す。偲は煙草を一本渡した。杉崎がそれを口に咥え、顔を近づけるので、偲も顔を寄せた。火のついた煙草の先端を、彼の咥えた煙草の先に押し当てる。お互いに軽く息を吸う。じりじりと煙草が炙られ、火が移った。   「……ガキの頃会ったことがあるって、あれマジなんだろ」    ゆっくりと煙を吐いて、杉崎が言う。偲は自分の指先を見つめて、何も言わない。   「思い出したんだよ。事故の後、短い間だったけど、施設にいたことがあるんだ。まだ包帯も取れてなかったし、陰気なつまらねぇガキだったから、友達なんかできなかったけど、でも一人だけ、同じくらいの歳の男の子とは、少し仲良くなったんだ」    お前だろ、と吐息交じりに杉崎は呟く。   「正直、名前聞いてもぴんと来ねぇけどな。お前、すぐに引き取られていなくなっちゃったし。でも、お前のその目」    杉崎はずいと顔を近づける。偲の目を覗き込む。夜の闇を思わせる、それよりももっとずっと深い、果てのない黒。黒い瞳。  何らかの重力に引かれて、杉崎がさらに顔を近づける。偲は、体を反らして顔を背け、杉崎の顔を押しやった。杉崎は大人しく引き下がる。   「お前のその目は、覚えてる。俺と同じで、お前も無口で陰気なガキで、目ェばっかりでっかくて、でもそのでっかい目で俺を見てくれてたこと、覚えてる」 「……」 「お前、知ってたんだろ、最初から。俺があの時のガキだって」    偲は、相槌代わりに煙を吐く。   「ま、こんな目立つ傷があっちゃな。あの事故も、当時は結構話題になったし。気づいてたなら、言ってくれりゃよかったのによ」 「……別に、思い出す必要はねぇと思っただけだ」 「確かに、お前にあそこまで言われても思い出せなかった俺に言えることじゃねぇけどさ」    俺は嬉しいよ?と、杉崎はまたも偲の目を覗き込んで言う。   「また会えて嬉しいし、昔のこと思い出せたのも嬉しい。お前がヒントをくれたおかげで、こうやってお前を見つけられたわけだし」 「はっ、何だよ急に。口説いてんのか」 「うん」    何の衒いもなく、杉崎は頷いた。偲の咥えていた煙草が落ちる。杉崎は地面に目をやる。   「前にお前言ったよな。俺があいつらを殺したのは、あいつらに殺されるに足る理由があったからだって。理由があれば、俺は平気で人を殺せる。それで得たものがあったはずだって」    杉崎は吸殻を拾い上げ、携帯灰皿に押し込んだ。   「お前の言う通りだよ。俺は茶々を殺されて──飼ってた犬な。親が死ぬ前から……それで、頭に血が上ったんだ。カッとなって殺して……たぶん、相手が死んだ後も殴り続けてたと思う。気持ちよかったんだよ、血のにおいがさ。茶々の仇を取って、ムカつく奴らをめちゃくちゃにして、全部壊して、それでもう、満足だった。後はどうなってもいいやって、とにかくそんな気分だった。高揚感っつーか、達成感っつーか、晴れ晴れした気分で、確かにその時はそうだったんだ。けど、最後に残ったのは、虚しさだけだったんだよな」    杉崎は咥え煙草を外し、偲の唇にそっと挟んだ。渇いた唇が僅かに湿る。   「刑務所に入って、前科もついた。それでも、俺が何をどうしたところで、茶々は帰ってこないんだ。そんなの、最初から分かってたことだけどさ、俺はずっと、どうしようもなく、一人だったよ」    出所後あちこち彷徨い歩くうち、蓮見(はすみ)社長と知り合った。知ってるか?と杉崎は若干声を落とす。   「あの人、元は海上保安庁勤務なんだ。巡視船の乗組員だったって」    そんな話は初めて聞くが、大袈裟な反応をするのも癪で、偲は気のない返事を返す。杉崎はそのまま続ける。   「一度だけ、領海侵犯の怪しい船と、戦闘になったことがあるらしい。目の前で同期の仲間が吹き飛ぶのを見て……相手の船も沈没して、全員死んだって。それから、船に乗れなくなっちゃった。仕事辞めて、田舎帰って、そんで莉子ちゃんのお母さんと出会って、結婚したらしいよ」    あの花農家は、莉子(りこ)の母親の実家なのだ。蓮見は婿養子に入って、あの家業を継いでいる。そのことは、彼らの雰囲気の端々から、偲も感じ取っていた。   「それで? てめぇは何が言いてぇんだ」    焦れた偲が口を挟むと、杉崎は言葉に悩んで言い淀む。   「あー、だからつまり、これは社長の受け売りなんだけど。過去は変えられなくても、生き方を変えるのに遅すぎることはない、ってことを言いたくて……」    少々決まりの悪そうな顔をしつつ、真っ直ぐに偲を見る。   「人殺しの前科者だし、カッとなったらすぐ手が出ちまう俺だけど、本当はこんなんじゃ駄目って分かってる。あれは確かに意味のある殺しだったし、得たものもあった。けど、やっぱり正しくないよ。手に入れたものより、失ったものの方がずっと多いから。俺は、人間として生きていきたいんだ。社会の中で生きるには、獣のままじゃいられない。お前だって分かってるだろ。初めは擬態してるだけだとしても、それでも俺は、人間として生きたいよ。社会に受け入れてもらえる自分でいたい」    だからお前も、と杉崎は続ける。   「お前も俺と同じはずだ。独りぼっちは寂しいし、罪を抱えて生きるのは辛い。この世界を憎んでるけど、絶望しきるにはまだ足らない。誰かと共に生きることを、まだ諦め切れてない。だから俺は、そんなお前が……」    肩を抱かれた。自然と目が合う。   「お前となら、もっと上手に、歩いていける気がするんだ」    見慣れた、獣じみた眼差しが、ふっと和らぐ。どこまでも真っ直ぐな、力強い眼差しに、偲の影だけが揺れている。  二人で分け合った煙草は、爪の先ほどの長さにまで縮んでいた。杉崎が灰皿を差し出すので、偲は吸殻を放り込んだ。   「一目見て分かったぜ。お前があの時のガキだってこと。それから、ある意味でイカレてるってこともな」    偲の言葉を、杉崎は黙って聞いている。   「味噌汁に毒を混ぜたと言った時、お前、少しも動揺しないで、おれに掴みかかったろう。それで確信した。お前はこっち側の人間だって」    偲は一呼吸置いて、杉崎の目をじっと見つめる。   「おれも、人を殺したことがある」    偲は、坂の下を指差した。   「あそこに見える、青い壁のアパート。あそこの二階に、おれと母親は住んでた。昔は、あんなに鮮やかな青じゃなかったがな。もっとくすんだ灰色だった。西側に出窓があるだろう。あの角部屋に住んでたんだ」    窓から小さく海が見えた。耳を澄ませば波の音がした。母はずっと海を見ていた。   「母親は心を病んでたんだ。海を見て、空を見て、帰らない男の帰りをずっと待ってた。絶対に帰ってくることはないって、ガキのおれにも分かったことが、母親には理解できなかった。ただずっと、男が迎えに来るのを待って、あの窓辺で、ずっと……」    耳を澄ませば、懐かしい波の音が響く。潮の香りを運んでくる。記憶の中に、青い海が光る。   「おれは、母親を突き落とした。あの窓から、思い切り体当たりをして。あの人は、飛べない小鳥のように、落ちていった。二階から、それほど高さはなかったのに、打ち所が悪くて、死んだ」 「……」 「殺した後悔はしていない。あの人は、現実を生きるには繊細すぎた。あの窓辺で、独りぼっちで物思いに耽る女は、もういない。海の向こうに思いを馳せる必要も、手に入らない幸せを想う必要もない。あの人は、もうこれ以上哀しまずに済む。だから、おれは……」    母が死んで、父が来ることを期待した。親戚の葬儀に参列するため学校を休んだクラスメイトがいたから。実際に来たのは、田舎の祖母だけ。祖母が死んで、それでようやく、偲は父の顔を知った。母が狂うほど愛した男の顔を。   「殺した後悔はしていない。おれはおれのできることをした。母の哀しみを取り除くにはあれしかなかった。あれが間違いだったとは、今でも思わない。が……」    思い出すのは、窓辺に佇む母の姿。青い海と、揺らぐ木漏れ日。逆光が母の輪郭をぼかす。  記憶の中でも、曖昧なままの母の顔。記憶の中でも、彼女が振り向くことはない。   「……虚しさしか残らなかったってのは、確かにそうかもしれねぇな」    肩を抱かれた。強く抱かれた。ただ静かに寄り添っていた。  顔を上げると、杉崎もこちらを向いた。視線が絡み、しばらくの間そうしていた。   「帰ろうぜ」    杉崎が言う。偲は一瞬目を伏せる。   「なぁ、杉崎」 「なに」 「おれを許すなよ」 「……」 「おれを許すな。お前だけは」    杉崎の左頬に手を触れる。黒ずんで盛り上がった、歪な傷痕。偲の放った包丁が切り裂いた跡。なぞるように指を這わせる。   「……お前こそ」    杉崎が、偲の右頬に手を触れた。   「お前こそ、俺を許すなよ」    大きな分厚い手。血の通った温かい指。頬に残る手術跡をなぞる。   「これも、ここも、こっちのも、全部俺がつけた傷だ」    包帯の下に指を入れる。右目をそっと撫でられる。   「忘れんなよ」 「……当然」    帰ろう、と杉崎がもう一度言う。   「こっちは夏の陽気だけど、向こうは桜が満開だぜ」 「……花見なんざしねぇぞ」 「んなのしなくても、家から見えるから」    偲は、右目を覆う包帯を解いた。初めて空の青さを知った。

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