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最終章 第一節 花

 白いカーテンが虚しく揺らめく。空っぽになったベッドを前に杉崎が何を思ったのか、荻野は知る由もないだろう。   「……兄さん……」    空っぽになったベッドの前で虚しく膝を折り崩れ落ちる弟の姿を、荻野は知る由もない。   「兄は孤独な人でした。会った時から、一目でそれと分かるほどに」    誠一郎は淡々と話す。   「幼くしてお母上を亡くされたと聞きました。近しいお身内を全て亡くされて、それから初めて、私達は会いました。中学生の頃でした」    カップを持つ手に指輪が光る。   「私の父が悪いのです。兄を引き取っておきながら、まるで息子のようには扱いませんでした。私はそのことに憤り──しかし、何もできませんでした。兄は、私から施しを受けることを良しとはしませんでした。今になって考えてみれば、当然のことです。私はとにかく無神経で、浅はかで、兄のことを何も分かっていなかったのです」    いつも荻野がコーヒーを淹れて飲んでいたマグカップ。熱いのが嫌で、氷を加えて冷ましていた。テーブルに直接置くから傷が付く。固い音が微かに響く。   「一度……いえ、兄は私の存在そのものに傷付いておられたかもしれませんが、一度だけ、私の行動によって、兄を深く傷付けてしまったことがあります。今でもそのことを悔いていて……兄に謝りたいのです。ただ一言、兄に許すと言ってほしくて、それだけのために、私は兄を捜していました」    テーブルの隅に花瓶がある。福寿草は枯れていた。   「私のこうした行いが兄を追い詰めていること、分かっています。けれど、どうしても……兄の孤独を取り除いて差し上げたかった。それができるのは、私しかいないと思っていました。兄にとっておよそ家族と呼べるものは、私しか残っていませんでしたから。ですが……」    誠一郎は顔を上げた。向かいに座る杉崎の目をじっと見つめる。   「それは、私の役目ではなかったのかもしれませんね」 「……誠一郎さん、俺は」 「杉崎さんは、兄の入院中に献身的に世話をしてくださったそうですね。弟として、お礼を申し上げます」 「……俺は、そんな大層な人間じゃありません。あいつの怪我は、俺のせいです。あなたがあいつに何をしたか知りませんが、俺の方がよっぽどあいつを傷付けてますよ。本当は、入院中の世話なんぞを呑気にやってる場合じゃないんです。本当なら、俺は、あいつに二度と会っちゃいけない」 「兄がそう申したのでしょうか」 「そうじゃない。でもそうでしょう。俺には、あいつの考えることが何一つ分からない。ほんの数か月一緒に暮らしただけです。分かるはずもない」 「……兄は嘘ばかり言いますね」    出し抜けに、誠一郎が言った。   「いつも、本心とは裏腹なことばかり。隠し事がお上手です。しかし、一度ガードを破られると、ひどく脆い。硝子のような、危ういお心をお持ちです。一つ接し方を間違えれば、それこそ、二度と会ってはいただけなくなります」 「……誠一郎さんみたいに?」 「ええ、私のように」 「……俺は……」    どうするのが正解なのか、分からなかった。ただ、自分がどうしたいのか。それだけは明白だった。萎れて変色した福寿草を前に杉崎が何を思ったか、荻野にも知ってほしかった。  誠一郎の協力を得て、ほんの少しだけ、荻野の過去を辿った。こんなところにいるはずがないと分かっていながら、彼が祖母と二人で暮らしていたという、鄙びた山村を訪れた。近隣の村と合併して、名前が変わっていた。荻野のことを覚えている村人は、一人もいなかった。  山に沈む夕日を見ながら、ふと思い出した。荻野が前に言っていた、海の見える家で育ったと。そこが、彼の真の故郷なのではないか。その場所を見つけ出すことができれば、荻野と再び会うこともできるかもしれないと、そんな予感がした。   「……うーん……いいにおい……」    枕よりももっとがっしりとして抱きしめ甲斐のあるそれを、杉崎はぐっと抱き寄せた。ふわふわでさらさらの髪に鼻先を埋め、深呼吸する。  夏の朝のにおいに似ている。朝露に濡れた、一輪の花の香り。日陰に咲く白い花だ。洗い立ての清潔さに、爽やかな甘さが混じっている。   「……おい……」 「んー、もうちょい」 「しつこいぞ、いい加減に」 「あー、もっと言って。お前の声、結構好き」 「……アホか」    腕の中で身を捩る。杉崎は、さらにきつく腕を締める。   「おい、さすがに苦しい。絞め殺す気か」 「その気がありゃあ、とっくにそうしてるっての」 「恐ろしいやつだな」    吐息交じりに少し笑った。  この声が好きだと言ったのは本当だ。独特の色気を孕んだ、艶のある低音。この声に名前を呼ばれたらと、そう思うだけで、何かたまらない気持ちになる。胸の奥に光が灯る心地がする。   「なぁおい、杉崎──」    要望通り、手を放した。同時に杉崎は身を起こし、相手を押さえ込むように覆い被さる。  じっと見下ろし、目を見つめながら、ゆっくりと顔を近づけると、軽い張り手が飛んできた。   「よせ」 「なんで」 「いいから離れろ」    腕を突っ張り、力任せに押し返される。仕方なく、杉崎は体を離した。その隙を見て、逃げられる。あっという間に布団の外だ。   「いつまでもうだうだやってねぇで、とっとと支度しろよ。また莉子から催促の電話が来るぜ」    そう言い残し、リビングへ行ってしまう。跳ねた頭髪を押さえながら、「はぁい」と杉崎は一人呟いた。  荻野が戻って早数週間。いつまでもこの調子だ。キスさえ一度もしていない。  それとなく誘ってみてはいる。布団に潜り込んでみたり、体をくっつけてみたり、今みたいに、じっと目を見て唇を寄せてみようとしたり。ことごとくうまくいかない。それとなくかわされる。今みたいに、明らかに拒まれることもある。  荻野のいなくなったこの家で、杉崎がどうやって過ごしていたのか、荻野は知るまい。この家がこんなに広かったなんて、こんなに静かだったなんて、寝室がこんなに寒かったなんて。元は一人で住んでいたはずなのに、身に沁みて思い知った。  そして今、少し窮屈になったこの家を、狭苦しい寝室を、杉崎が愛おしく思っていることも、荻野は知らないだろう。二人での暮らしを心地よく思っていることを、荻野は知らないだろう。  また会えただけ、戻ってきてくれただけ、いいと思うしかないのだろうか。少なくとも、杉崎に愛想を尽かして出ていったわけではないらしいのが救いだ。表面上は元通りの生活に戻り、しかし実際のところ、二か月に及ぶ空白は確かに存在している。   「ほら二人とも、こっち向いて!」    莉子が手を振り呼んでいる。ファインダーを覗き、レンズ越しに合図を送る。   「違う違う、もっとくっついて! ちょっと、なんで離れるの!? もうちょっと外側……そうじゃなくて、背中合わせな感じで……だから離れすぎだってば! もっとくっついてよ」    ようやくシャッターが切られた。続けてもう二、三枚、少しポーズを変えて写真を撮られる。莉子がファインダーから目を離す。ひとまず満足したらしかった。   「気に入ったの撮れた?」 「うん、たぶん。現像してみないと分かんないけどね」    レバーを引いてフィルムを巻きながら、莉子は笑った。  今日は、莉子の要望でラベンダー園を訪れていた。白のチュニックブラウスにデニムのショートパンツ、リボンを結んだ麦わら帽子を被って、普段よりも少しお洒落をしている莉子の背後には、鮮やかな紫の絨毯が見渡す限り広がっている。   「次ね、ブランカと。遥ちゃん、そこしゃがんでみて。ブランカがいい子にお座りしてるから、隣にしゃがんで」 「俺はもういいってぇ。散々撮ったじゃない。莉子ちゃんもちゃんと写らないと」 「私はいいんだ。というか、今日は私のカメラ旅に付き合わせてるんだから」 「そうは言ってもさぁ、記念にもっと撮っとこうよ」 「……おい、撮るならとっとと撮ってくれ」    足元から声がした。荻野が地面にしゃがみ込んでいる。ラベンダーの花影に身を隠し、大きく息をつく。   「顔赤いよ。大丈夫?」 「……ああ」 「大丈夫じゃなさそう。暑いんだろ、のぼせた?」 「……別に、何でもない」 「莉子ちゃーん、荻野が疲れちゃったって。この日差しに負けたんだよ」 「うるせぇ、負けてねぇ」 「負けてんじゃん。そうだ、記念にこいつダウンしてんの撮っといて。そこから写る?」 「おい撮るな、やめろ」    荻野はせめてもの抵抗を見せたが、莉子は「ばっちり」とオーケーサインを出す。二度もシャッターを切られた。  ラベンダー園とはいうものの、他にもたくさんの花が咲いている。真っ赤なサルビア、黄金のマリーゴールド、空色のネモフィラ、色とりどりのポピーに、パステルカラーのルピナス、白いハマナスは涼しげで、色彩豊かな花畑を彩っている。  とはいえ、一番の目玉はやはりラベンダーだ。売店にはラベンダー関連の土産物が並び、ソフトクリームまでラベンダー味だという。鮮やかな紫は、確かにラベンダーの花びらそのまま。特徴ある香りも、確かにラベンダーそのものだ。   「偲くん、ごめんね? 無理させちゃった」 「気にするな。涼しいところで休んだら楽になった」 「でも私、カメラに夢中で」 「いいんだよ、莉子ちゃん。大人のくせに水分補給も忘れるなんて、こいつの自業自得だから」 「杉崎よ、冷たいじゃねぇか。さっきはあんなに心配してくれたのに」 「心配なんかしてませーん。弱ってるお前がレアで揶揄いたかっただけでーす」 「こら、遥ちゃん。病人には優しくしないと」 「気遣いはありがてぇが、病人扱いは釈然としねぇぞ」 「そうだよ莉子ちゃん。こいつそんなヤワじゃないって」    売店でソフトクリームを買い、花畑を臨むテラス席で食べた。杉崎と莉子はラベンダーソフトを、荻野だけメロンソフトを選んだ。この辺りはメロンの産地としても有名らしい。ブランカにも水筒から水を飲ませ、売店に売っていた犬用おやつを食べさせた。   「ラベンダー味っていうからどんなもんかと思ったけど、結構おいしいね」 「うん。もう一個食べたい」 「そんなことしたらお腹壊すよ?」 「分かってるけど! こういうとこで食べるソフトクリームって、なんでこんなにおいしいんだろう」 「外だからかな? 綺麗な景色見てると、気持ちも洗われるもんね」 「私は暑いのも関係してると思う」 「そんな、身も蓋もない」 「……なぁ、ちょっとそれ貸してくれ」    荻野が言う。莉子は、首に提げていたカメラを外した。   「これ?」 「見ていいか」 「気をつけてね。一応お父さんのだから」    ソフトクリームをテーブルに置き、荻野はカメラを受け取った。  莉子が最近カメラに凝っているのは、父親の古いカメラを譲り受けたためである。今でこそ中古のフィルムカメラだが、買った当初は高級品で、修理するとなれば高くつき、替えの部品を見つけるのも難しいため、とにかく傷を付けないようにと、莉子は細心の注意を払い、大切に扱っている。デジタル全盛のこの時代、アナログな機械をいじっている感覚が楽しいのだと、莉子は言う。   「一枚いいか」 「うん。なに撮るの?」 「……」    荻野は椅子を引いた。ファインダーを覗いて、レンズを莉子と杉崎に向ける。   「ほら、こっち向け」 「えー? 私はいいよ」 「なんでだ。撮っとけ」 「でもぉ」 「撮ろうよ、莉子ちゃん。ちょうどラベンダーも写るし、いい記念になるんじゃない?」 「……じゃあ、一枚だけね?」    莉子はカメラに向き直るが、荻野は違うと首を振った。   「椅子引いて、もっとくっつけよ。背景もちゃんと入れたいから」 「えー、こう?」 「もっとだ」 「こんなに?」 「もっと」 「でも帽子が……」    莉子の被った麦わら帽子の広いツバがつっかえるので、杉崎はツバを持って、そっと帽子を脱がせた。陰になっていて見えにくかった莉子の表情が、一気に明るくなる。   「ほら。これなら綺麗に写るんじゃない?」 「ああ、だな。そのままもう少しくっついてみろ」 「こんな感じ? いいから早く撮ってくれよな。アイスが溶ける」 「ああ、そいつを手前にしてちゃんと写るようにして」 「ほら、莉子ちゃんも」    杉崎は莉子の手を握り、ソフトクリームを画角に収めた。ようやくシャッターが切られる。ラベンダー畑を背景に、ラベンダー味のソフトクリームを食べているワンシーンだ。  荻野がファインダーから目を離すなり、莉子はぱっと椅子を引いた。握りしめていたソフトクリームは急激に溶け、ワッフルコーンに垂れ落ちている。莉子はその溶けかけのソフトクリームに頭からかぶり付いて、一気に頬張った。   「そんなに食べたかった? 頭キーンってならない?」 「ん……。早くしないと、溶けるから」 「そうだよね、俺のも結構やばい感じだし。誰かさんがもたもたしてっから」 「おいおい、もたもたしてたのは被写体の方だろうが」 「ていうか、お前のメロンも結構やばいよ? 急いで食べな?」    荻野のメロンソフトは、カップの中でシロップになりかけている。飲むようにして食べ切った。

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