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第二節 丘
なだらかな丘には見渡す限りの花畑が広がる。遠くに目をやれば、青い山脈が連なっている。それら雄大な大自然を一望できる位置に、小さな遊園地がある。
メリーゴーランドやコーヒーカップ、空中ブランコといった定番アトラクションは揃っている。中でも一際目を引くのは、高さ八十五メートルの大観覧車だ。ゴンドラに乗って頂上まで昇れば、絶景が待っていることは間違いない。
「それじゃ、二人で乗ってきて」
莉子が言った。
「そりゃないよ、莉子ちゃん。何が悲しくて、こいつと二人で観覧車乗んなきゃなんないのさ」
「同意だね。あんな小せぇ箱にこいつと二人なんてぞっとするぜ」
「んだよ、俺そこまで言ってねぇぞ」
「同じことだろうが。あの高さから突き落とされたらたまらんからな」
「んなことするか! あっ、もしかして高いとこ怖いとか? 高所恐怖症? 怖いなら怖いって素直に言えよ?」
「おい誰が──」
「えっ、偲くん高いとこ怖いの?」
莉子の一言で、荻野はぐっと口を噤み、低い声で唸る。
「怖いわけねぇだろ……」
「ホントに? 嫌なら無理強いはしないよ? ここでブランカと待っててよ」
「本当だ。全然全くこれっぽっちも怖くないから心配するな」
「そう? じゃあ遥ちゃんと二人で一周してきてね。私はブランカと下で待ってるから、上からカメラで撮ってよ。はいこれ、落とさないでね。じゃ、いってらっしゃい」
まんまと乗せられた気はしなくもないが、こうして二人は、小さなゴンドラに乗り込んだ。一周二十分の空の旅。動いているのかいないのか分からないほどのスピードで、しかし着実に、ゴンドラは空へと上がっていく。
さっきはつい反射であんなことを言ってしまったが、本当は、荻野と二人で観覧車に乗るのが嫌なわけではない。ただ、二十分間もあの小さなゴンドラに二人きりで閉じ込められて、どうすればいいか分からなくなると思ったのだ。
「莉子ちゃんとブランカ、小さくなっちゃったね。カメラで見えんの」
「……まぁ、一応な」
「もう撮った?」
「……いや。なるべく高いところの方がいいだろ」
「なぁ、あれ全部ラベンダーだぜ。あの紫の、ぜーんぶ。すげぇよなぁ、上から見ると圧巻だぜ。確かあの辺で写真撮って……あっちが十勝連峰か。んで、向こうに見えるのは……」
「……」
「聞いてる?」
「うるせぇな。莉子を見失って探してんだよ、邪魔すんな」
「んだよ、エラそーなこと言っといて」
まもなく地上八十五メートル。頂上に到着です。と女性の声でアナウンスが入る。杉崎は荻野の隣に腰を下ろした。ゴンドラが僅かに傾く。
「見つかった?」
「てめぇも探せ」
「うーん、どれ」
壁に手をつき、窓から地上を見下ろす。自然と、荻野を壁際へ追い込む姿勢になる。なんだかひどく距離が近い。気づいてしまえば、意識せざるを得なくなる。
白いうなじに、柔らかそうな後れ毛。伏し目がちの瞳に、影を落とす睫毛。一日を過ごした汗の香しさと、少し獣臭く感じるのはブランカのにおいが移ったせいだろうか。カメラを持つ指先に、今日は煙草のにおいがしない。
背後から腕を回して、荻野の顎を掬い取った。肩越しに後ろを向かせる。顔を近づける。目が合った瞬間、荻野は大きく目を見開いた。
「い゛ッッてェ!」
「あ……悪い」
突然、顔面に鈍い衝撃が走る。ゴンドラが大きく揺らぐ。尻餅をついて倒れた杉崎が声を荒げると、荻野は素直に謝罪を口にした。
「何も殴り飛ばすことねぇだろ。しかもあんな思いっ切り」
「……おれは悪くない」
「んだよ、やっぱ素直じゃねぇ」
「てめぇが悪いんだろ。こんなとこで何しようってんだ」
「こんなとこって……」
観覧車の頂上は過ぎた。ゴンドラはゆっくりと下降を始めている。
「こんだけ高ければ、下からは見えねぇと思ったんだよ」
「……」
「ねぇ聞いてる?」
「うるせぇ。莉子が手ェ振ってる」
「えっ、どこどこ」
「噴水のとこ」
「ふーん……」
莉子が両手を振って飛び跳ねていた。その隣で、ブランカも尻尾を振っている。
「なんか言いたいことありそうな雰囲気」
「ああ」
「写真撮れた?」
「一応な」
観覧車が一周した。二十分の空の旅が終わる。ゴンドラを降りるなり、莉子が真っ先に駆け寄ってきた。
「大丈夫だった? 二人が乗ってたの、すごく揺れてたよ」
「ぜーんぜん大丈夫。突風かなぁ~」
「いや、二人が乗ってたやつだけだし……それに遥ちゃん、その顔」
「あー、いや、これはほら」
握り拳で思い切り殴り飛ばされたのだ。血は出ていないが、痣くらいはできている。
「ちょ~っと俺が揶揄い過ぎちゃって、怒らせちゃった。でもこいつもすぐ謝ってくれたし」
「ほんと?」
「ホントホント。な? もう仲直りしたもんな?」
わざとらしく肩を組んでウインクをすれば、荻野は黙って頷いた。
「あやし~い」
「本当だって! 荻野もなんか言って!」
「……手を出したのは、悪かったと思ってる」
「ちゃんと謝ったの?」
莉子が言えば、荻野はまた黙って頷く。
「それならいいけど。狭い場所で危ないんだから、ケンカなんかダメだよ?」
「ああ。悪かった」
「うん」
「次、お前と杉崎で乗ってこいよ。おれはここで待ってる」
荻野が言った。「いいの?」と莉子は杉崎を見る。
「莉子ちゃんも、てっぺんからの景色見た方がいいよ」
「綺麗だった?」
「うん。それでさ、次は俺らが、下で待ってる荻野のこと撮ってやろうぜ」
そんなわけで、降りて早々、再びゴンドラに乗り込んだ。ゆっくりと地上を離れる。上昇するゴンドラの窓から、莉子は地上を見下ろし手を振った。
「遥ちゃんはさ、偲くんがキライなの?」
ゴンドラ内のシートに深く腰掛けて、足をぶらぶらさせながら莉子が言った。杉崎が言い淀むと、「違うよね」と続ける。
「本当に嫌いなら、喧嘩なんかしないよね。お仕事休んで、遠くの町まで迎えに行ったりしない。それに、ずっと一緒に住んでるもん。苦手な相手と一緒に住んだりできないよ、普通」
「……苦手なとこはあるよ」
杉崎が言うと、莉子は驚いて目を瞬かせた。
「そうなの?」
「うん。正直、なに考えてんのか分かんない。大事なこと、何にも言ってくれないし。まぁ、元々おしゃべりな方ではないんだろうけど、それにしたってさぁ、と思うよ」
「遥ちゃんがそうなら、私なんて偲くんのこと何にも分かってないんだろうな」
「どうだろね。あいつ、莉子ちゃんの前だとかなり猫被ってるから」
「そう?」
「俺と二人の時は、あんなに素直じゃないし、皮肉っぽくてムカつくことばっか言うし。女の子の前ではカッコつけたいタイプなのかも」
「えー? そういうのはあんまり考えたことなかったな」
夕日が斜めに差し込んでいる。莉子の頬が赤くなる。
「……でも、うん。やっぱりキライじゃないよ。莉子ちゃんの言う通り」
眼下に広がるラベンダー畑も、夕日を浴びて赤らんでいる。
「苦手なとこもあるし、ムカつくとこもあるけど、あいつと暮らすの、俺は好きだよ」
昨年の夏も、莉子に誘われてここへ来た。丘一面のラベンダー畑を、杉崎は初めて見た。こんなにも美しい風景があることを、初めて知った。莉子が教えてくれるものは、いつも、何でも、美しい。
「今日来られてよかったね。お天気もよくて。この景色、偲くんにも絶対見てほしかったから」
「あいつ、ああ見えて結構楽しんでたと思うよ」
「だといいんだけど」
「あっ、ねぇ見て。こぐまのカステラ屋さんに並んでる。似合わねぇ~」
頂上を越えて、ゴンドラは下降を始めた。莉子はカメラを構えてシャッターを切った。ブランカと共に列に並んだ荻野は、ちょうど財布を準備している最中だった。
なぜ急にカステラなのか、小腹でも空いたのだろうかと莉子と話したが、実際のところ、それは杉崎に渡すために買ったものだった。「殴った詫びだ」とこぐまのイラストが描かれたファンシーな紙袋を寄越してくる姿に、杉崎は思わず笑った。そこでまたすったもんだ揉めたわけだが、結局のところは、こぐまの形をした一口サイズのベビーカステラを、三人で仲良く分けて食べた。
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