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第三節 車

 行きは荻野の運転だったが、帰りは杉崎の運転で帰る。後部座席で、莉子とブランカはもたれ合って眠っている。助手席でも、荻野が寝息を立てている。  溶けた夕日が、地平線に張り付いている。昼間あんなに青かった空が、ラベンダー色に焼けている。車を走らせる度に影が濃くなる。莉子を送り届けた頃には、もう夜が始まっていた。   「偲くん、まだ寝てる?」 「うん。家までもうすぐだけど、寝かせてあげようと思って。莉子ちゃん、カステラ持ってきなよ。残り少ないけど」 「ううん、残りは二人で食べてよ。もういっぱいもらっちゃったし、夕ご飯入らなくなっちゃう」 「いいの?」 「うん。今日はありがとね。写真現像できたら、焼き増ししてあげるから」 「変な写真はいらないよ?」 「タイミングよくくしゃみしちゃったやつとか?」 「もうそれ絶対変な顔してるから~」 「ちゃんとしたの選んでおくね」 「そうして。楽しみにしてる」    莉子を降ろすと、車内は一気に静寂が満ちる。荻野はまだ寝ている。十分もかからず家に着く。荻野はまだ寝ている。   「起きろよ。着いたぞ」    杉崎が言えば、荻野は目を擦りながら身を捩る。   「ん……莉子は」 「もう帰ったよ。お前、ぐっすり寝てんだもん」 「……そうか」    ぽつりと漏らしたその声が少し寂しそうで、杉崎は荻野の顔を覗き込んだ。まだ半分夢の中にいるらしい朧気な表情が、普段は決して見せることのないあどけなさを帯びていた。  思わず、そうしていた。半ば衝動的と言っていい。磁石が引き合うように、唇を重ねていた。   「ん……」    深く唇を押し当てる。薄く開いた唇に、舌先を押し込んだ。唇の裏を一舐めする。さらに奥へと舌を進める。隙間を全て埋めるように、唇を密着させる。深い角度で舌を絡める。鼻にかかった甘い声が漏れる。  次の瞬間。ガコン、と派手な音がして、座席が倒れた。杉崎は反射的に体を起こす。荻野は倒れたシートに身を預けている。   「てめっ、危ねぇだろ! なにすんだよ急に!」 「っ……てめぇこそ、急になんのつもりだ……」 「なにって……本当は分かってんだろ。お前だって」    嫌がらなかったくせに。それどころか、自分から舌を差し出してきたくせに。何をそんなに怖がっているのか。何を拒絶したいのか。言いたいことは山ほどあった。しかし、そのどれもが、言葉にはならなかった。己の下で顔を背けた荻野が、初めて見る表情をしていたから。   「……何つー顔してんだよ」 「うるせぇ見んな。いいから離れろ」 「そりゃ無理な相談ってやつかも」 「ああ?」    両手を掴んで押さえ込む。荻野が膝を蹴り上げようとするので、体重をかけて押さえ込んだ。   「……重ぇ、どけ」 「暴れないって約束してくれんならな」 「……」    荻野は黙って視線を逸らす。チィッ、と当て付けがましく舌打ちをする。   「そこは素直にうんと言えよ」 「誰が」 「なぁ。お前、俺がキライなの?」    観覧車で莉子が言っていたのと同じことを、杉崎は荻野に問う。荻野はあからさまに嫌そうな顔をした。   「なにを訳の分からねぇことを言ってんだ」 「そのまんまの意味だけど。俺が嫌いだから、そういう態度なの?」 「……だったら、なんだよ」 「俺はお前のこと、嫌いじゃないよ。むしろ……だって、そうじゃなかったら、わざわざお前のこと探しに行ったりしねぇよ。あんなことがあったのに、まだ一緒に住もうなんて思わねぇよ。お前も同じように思ってくれてるんだと思ってたんだけど、違うの?」 「……」    荻野は唇を噛む。杉崎の視線から逃れるように身を捩る。   「俺は、お前が戻ってきてくれて嬉しいよ? もう二度と会えねぇかもって思ってたから、余計嬉しい。お前は違うの? 俺が見つけて迎えに行ったの、迷惑だった?」 「……どうせ、都合のいいセフレが惜しくなっただけだ」 「いや、まぁ確かに、そういう側面は否定できないけどさ。何せ、始まりがあんなだったもんな。けど、前にも言ったけど、俺、お前と二人なら、もっと上手に歩いていける気がするんだよ。お前といると、一人じゃなくなるんだ。分かんない? 分かるはずだぜ、お前にも」 「……」 「なぁ、ちゃんと答えてくれ。俺のこと、キライ? もし本気で嫌だってんなら、もう二度とこういうことしない。約束する」 「……おれは……」    夜の帳が下りるように沈黙が満ちる。荻野の視線が、右へ左へ、上へ下へと彷徨って、そしてようやく、唇が震える。   「嫌い、じゃ、ない……」    微かに安堵の息が漏れた。予想していた答えではあったが、改めて言葉にされると、胸に迫るものがある。緊張の糸が緩む。それじゃあ、と杉崎が言いかけると、荻野の声が遮った。   「でも、だから何だっていうんだ? 何も変わりゃしないだろ。おれ達の間に、何かが生まれるわけじゃねぇ。そうだよな? そうじゃなきゃおかしい。だってお前は……」 「おい、急になに言って」    荻野の瞳が、真っ直ぐにこちらへ向けられた。荻野から視線を合わせてくれたのは、久方ぶりのような気がした。   「お前、莉子はいいのかよ」    しかし、飛び出した言葉は要領を得ない。   「は、えっ? なに言って……」 「莉子のことはどうすんだって聞いてんだ。あの娘は、お前が思うより大人だぞ」 「莉子ちゃんは関係ねぇだろ。何の話だよ」 「関係あるだろ。あいつは」 「莉子ちゃんはまだ中学生だぜ。そりゃあ、俺によく懐いてくれてはいるよ。けど、一回りも年下の女の子とどうこうなろうと考えるほど、俺は落ちぶれちゃいねぇよ」 「お前のことは聞いてねぇんだよ。大体な、そりゃあ今はちんちくりんだが、もう五年もすりゃ、十分大人の女になるぜ。その時まで待てば、きっとお前も」 「十年経ったところで、俺にとっちゃ初めて会った時の小さい女の子のまんまだよ。それとも何。お前、あの子のこと女として見てんの。五年十年待って、大人になったら食っちまう気か? 優しい兄貴演じてんのは、油断させるためってわけ?」 「おい、急に訳の分からんことを捲し立てんな。おれはてめぇの話をして」 「訳の分からねぇことを言ってんのはてめぇだろ。莉子ちゃんは関係ねぇ。俺は、俺とお前の話をしてんだ」 「っ、おい、杉崎……っ」    荻野の顔が苦痛に歪む。知らず知らずのうちに、荻野の腕を掴んでいた手に力が入っていた。杉崎はそのことに気づかず、さらに強く力を込めて締め上げる。   「大体さ、何も変わらないってなに。俺らの間に何も生まれるわけじゃないって、なに。お前、俺ンこと嫌いじゃないって言ったじゃん。どういう意味で言ったわけ。結局なに考えてんの」 「杉崎、落ち着い──」 「じゃあなんで戻ってきてくれたの。なんで俺といてくれんの。一緒に飯食って、同じ布団で寝て、それで何も生まれないわけないじゃん。本当は何がしたいわけ。俺のことどうでもいいと思ってんの? だから言い訳して逃げてばっかで」 「っ、杉崎!」    顔面に鋭い衝撃。本日二度目だ。鋭い頭突きが額を弾く。興奮して顔を近づけ過ぎたために、思わぬ反撃に遭った。仰け反って額を押さえる杉崎に、荻野は鋭く言い放つ。   「落ち着けって言ってんだろ」 「だってよ」 「てめぇ、おれだって莉子のことはガキとしか思ってねぇよ。向こうだって、おれのことはせいぜい親しい友人くらいにしか思ってねぇだろうぜ。けどな、女ってのは男よりも精神的に成熟が早いもんなんだ。あの年頃の娘が集まりゃ、色恋の話で盛り上がってばかりいやがる。身近な男に惚れるなんざ、当たり前の話だろうが。歳が一回り違うくらい何だ。むしろちょうどいいじゃねぇか。あの年頃の娘は、同年代の男を全員ガキだと思ってんだからな」 「……だからって、彼女がどう思っているかなんて、分からないだろ」    杉崎が呟けば、荻野は呆気に取られたように目を丸くし、やがて心底呆れ返ったように、大きく溜め息をついた。   「もういい。てめぇは本当に面だけの男だな」 「オイなにが言いてぇ」 「もう疲れたって言ってんだ。いいぜ。お前の望む通りにしてやる」 「はあ?」 「この手を放せよ」    杉崎がそうするまでもなく、腕を振り解かれた。   「何のつもりだよ」 「だから言っただろ。お前の望む通りにしてやる」 「俺の望みって」 「やりたいんだろ。やらせてやる」 「は、はあ!?」    まただ。突拍子もない言葉が飛び出す。車を降り、乱暴にドアを閉めた荻野の後を追いかけて、杉崎も車を飛び降りた。   「なんでそうなるんだよ。俺の話ちゃんと聞いてた?」 「聞いてたぜ。要はやりてぇんだろ」 「そ、そりゃ、やりてぇかやりたくねぇかで言やぁ」 「おれがいつまでも煮え切らないんで、やきもきしてたんだろうが」 「いやだから、そういう面もあるっちゃあるけど」    乱暴に玄関を開ける。靴を揃えずに脱ぎ捨てる。リビングの明かりをつける。今朝出かけた時のまま、畳み損ねた洗濯物が散らばっている。   「だからって、ただヤれりゃいいってわけじゃないんだけど?」    こちらに背を向け、家の奥へと進んでいく荻野の腕を捕まえた。荻野は振り向かない。   「お前な、困ったらすぐセックスで解決しようとすんの、悪い癖だぞ」 「お前に言われる筋合いねぇよ」 「あるだろ。俺はお前が」 「今日ヤるか、一生ヤらねぇか、どっちか選べ」 「んだよ、その極端な二者択一は」 「いいから選べ。おれは一生ヤらなくても構わんぞ」 「だからなんでそうなるんだって。俺はただ」 「いいのか。一生ヤらなくても」 「わ、わーったよ、やる。やります! やるけどさ」 「ふん。最初からそう言え」    荻野が掴まれた腕を振り解こうとするので、杉崎は反射的にきつく握りしめた。荻野はまた大きく息をつく。   「シャワーくらい浴びさせろ」 「……逃げんなよな」 「はっ、信用ねぇなぁ。てめぇ、やっぱりおれのこと嫌いだろ」    吐き捨てるようにそう言って、乱暴に腕を振り払われた。脱衣所のドアがぴしゃりと閉まる。  杉崎はソファに深く腰掛けて、溜め息をついた。  どうしてこうなってしまうのか。何もかもうまくいかない。怒らせるつもりなどなかった。ただ真正面から話をしたかっただけ。それなのに、いくら言葉を尽くしても、荻野にはこれっぽっちも届かない。どこまでも一方通行だ。まるで地図のない道を歩くような、暗闇の中を手探りで彷徨うような、そんな虚しさと焦燥を覚える。   「……風邪引くぜ」    いつの間にか、流しっぱなしのシャワーの音がやんでいた。タオルを一枚、腰に巻いただけの恰好で、荻野が出てきた。ソファに座る杉崎の前に立ち、「どうせすぐに脱がすだろ」と挑発的な笑みを浮かべる。そうして杉崎を見下ろしながら、膝の上にまたがった。  風呂上がりの火照った体だ。触れただけで、杉崎にも熱が伝わる。湯気を帯びて上気した頬と、潤んだ唇が近づいてくる。  そこで、荻野の動きが止まった。確かに唇を近づけていたはずなのに、ぴたりと動かなくなった。  はらりと前髪が舞い落ちる。毛先から水が滴る。杉崎の額に落ち、頬を伝って、唇を濡らした。   「……髪、乾かした方がいいんじゃない」    杉崎は、荻野の後頭部に手をやった。くしゃりと掻き撫でる。指が湿った。その手をやめろと言いたげな目付きで、荻野は杉崎を睨む。   「……やっぱさ、お前にもちゃんと考えてほしいよ」    暗闇の中を彷徨っているのは、荻野も同じなのかもしれない。霧の中で、方角も分からずに藻掻いているのは、杉崎だけではないのかもしれない。   「俺の言った言葉の意味とか、お前の言った言葉の意味とか、もう一回ちゃんと考えてよ」 「……なんで」 「大事なことだろ」 「……考えるまでもないことだ……」 「いーや、必要だね。特に、俺達にとってはさ。そんで……」    深刻にならないよう、あえて軽い調子で言う。   「そんで、よーく考えた上でそうしたいってんなら、やっぱり、逃げたっていいんだぜ」 「よく言う。さっきは逃げるなと言ったくせに」 「うん。だから、よく考えて。それ次第で、俺も覚悟決めるから」    地図がなくても、進むべき道が分からなくても、二人でいれば、行き先を照らす光くらいは見つけられるかもしれない。   「シャワー浴びてくる。二十分で出てくるから」    それまでに考えておいてほしいと、言外に滲ませた。荻野は唇を噛んで押し黙り、しかし、二十分後も、そこにいた。

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