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第30話

それからは驚くほど平和だった。 朝、会社へ行く。 仕事をする。 帰る。 そんな当たり前の日々。 違うのは、その隣に先輩がいることだった。 「おはよう」 「おはようございます」 朝、会社で顔を合わせる。 帰る時も。 「さ、帰るわよ」 と当然のように声を掛けられる。 最初は遠慮していた。 申し訳ないとも思った。 だけど先輩は全く気にしていないらしい。 むしろ放っておく方が心配らしかった。 おかげで元彼と鉢合わせることもなくなった。 あの恋人と会うこともない。 穏やかな毎日だった。 本当にありがたいと思う。 そんなある日だった。 仕事を終え、いつものように先輩と会社を出る。 駐車場へ向かう途中。 「あらやだ」 先輩が立ち止まった。 「どうしたんですか」 「スマホ忘れたわ」 呆れたように額を押さえる。 「すぐ戻るから」 そして俺を指差した。 「外で待ってなさい」 「はい」 「そのまま車持ってくるわ」 そう言い残し、先輩は会社へ戻っていく。 俺は入口付近でぼんやり待つことにした。 ほんの数分。 そのはずだった。 突然。 肩を強く掴まれる。 「っ!」 驚いて振り返る。 そこにいたのは―― あいつだった。 思わず息が止まる。 「いつ引っ越したんだよ!」 怒鳴られた。 意味が分からない。 しばらく言葉が出ない。 「……え?」 「何で黙って出てったんだよ!」 肩を掴む力が強くなる。 痛い。 周囲の視線も気になり始める。 「だいぶ前」 やっと声を絞り出す。 「仕事の関係で」 嘘ではない。 全部ではないけれど。 「ふざけんな!」 さらに怒鳴られる。 周囲がざわつく。 俺はただ立ち尽くしていた。 理解できない。 どうして。 なんで俺が怒られているんだろう。 恋人がいたのはお前だ。 俺を置いていなくなったのもお前だ。 俺を探しもしなかったくせに。 なのに。 どうしてそんな顔をするんだ。 まるで裏切られたのは自分だと言わんばかりに。 胸の奥が冷たくなる。 怖いとか。 悲しいとか。 そういう感情より先に。 ただ一つだけ思った。 ――本当に、この人のこと分からないな。と。

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