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第19話 【オーウェン視点】遠い記憶

母さんは優しくて穏やかな人だった。綺麗に整えたイングリッシュガーデンのどこかで毎日草木や花の手入れに明け暮れていた。だけど不思議と父は居なくて、だけど僕たちは生活するのにお金に困ることはなかった。母の服からは庭に植えたハーブの香りが強く香っていた。僕が覚えている母の記憶はこれがほとんど。 10歳くらいの時に母も居なくなった。死んではいないけれど、『ただちょっと精神が疲れた』と見知らぬ男性に言われた。見知らぬ男性は泣きながら言った、あなたを隠さなければならないと。 僕は大人の人が泣く様子にショックを受けていたかも知れない、ただ自分から何かを聞いてはいけないと思った。 そして車に乗って知らない場所に連れて来られて、そこに居る使用人や子どもたちと遊んだ。すぐに帰れると思っていたけれど、気がつくと男性は居なくて。母のところに帰りたいと言っても取り合ってはくれなかった。使用人達の笑顔や気遣いはありがたかったけれど、なぜか僕はその人達を好きではなかった。 大人になって、母と再会したけれど、それからが酷かった。 母と再会したのは病院で、面変わりした母に僕は愕然とした。 月に一度会うたびに、母は不安定になっていくようで、僕はお医者さんに薬を減らせないか頼んだけれど首を縦に振ってはもらえなかった。 それからも知らない男性は僕の生活を支えてくれたけれど、前ほどの生活には戻れなかった。 一日中誰とも話さない日もあった。 ただ毎日、教会に通った。 ──遠い日の記憶だ。 意識がゆっくりと浮上していく。 まぶたの裏で光が揺れ、やがて輪郭が結ばれる。 リリズが、僕を覗き込んでいた。 「……リリズ?」 「オーウェン、起きて朝食を済ませろ。教会へ行く」 夢との符合に、胸がひやりとする。 まだ夢の続きなのか、それとももう現実なのか。 「教会って……?」 「サンタバルナ大聖堂に決まってるだろ」 その名を聞いた瞬間、現実の重みが静かに戻ってきた。サンタバルナ大聖堂は市壁内唯一の教会だ。 リリズはもう部屋を出ていく。 扉が閉まる音を聞きながら、僕はゆっくりと身を起こした。 部屋に備え付けの漆黒のアイランドキッチンには、ケイデさんが用意してくれたであろうサンドイッチなどの軽食が準備されている。 洗面台の蛇口をひねり冷たい水に触れれば、夢の名残が少しずつぼやけていく。 鏡に映る自分の顔は、どこか他人のように見えた。 シャツに袖を通す。 ボタンを留めるたびに、胸の奥が静かに整っていく気がした。 サンドイッチを一つ手に取りそこのまま玄関を出ると、外の空気が思いのほか澄んでいた。 車のそばで、リリズが待っている。 「お待たせ、リリズ」 「早く乗れ」 助手席に乗り込むと、リリズのコロンの香りがほのかに感じられた。 街はまだ朝の色をしていて、通りを抜けるたび石畳に日が差し車の影が伸びていく。 そんな何気ない景色と遠い日のあの男の人と居た記憶とを、僕は重ね合わせていた。 ※ ※ ※ サンタバルナ大聖堂は、静かに聳えていた。 ステンドグラスの光が床を染め、ほのかに香の煙が漂っている。 二人は並んで席に座り、しばらく無言で祈った。 長い沈黙のあと、僕は小さく息を吐く。 「毎日、ここに来るの?」 「毎日じゃないが、よく来ている」 「そうだったんですね」 「お前はあまり来ないのか?」 「僕もあっちの家にいた頃はよく祈りに来ていました」 「あっちの家ってアッシュフォルデか?」 「いえ…、もっと遠い家です」 「……?」 だんだんと高くなる日の光が教会を照らす。 「リリズ、今日はどうするの?」 「スポンサーのCM撮影だ」 僕は「ああ」と頷く。身体が本調子でなくともリリズの仕事は試合だけじゃない。容姿でも人を惹きつけるリリズだから、スポンサー企業はいろいろと宣伝にリリズを使いたいのだろう。 「帰りは何時くらい?」 「多分、夕方になる。…お前は?」 「僕も夕方にはなりそうです」 「どこかに行くのか? 今日は銭湯は休日だろ」 「…ええ、母の所に」 リリズが一瞬戸惑ったのがわかった。 アッシュフォルデの後妻は気が触れて、今は遠い施設に入っている。 これが貴族の間では知られていることだから無理もない。 「そうか、今度は俺も挨拶に行かせてくれ」 それだけ言って、リリズは立ち上がった。 「もう、行きますか?」 「ああ、駅まで送る」 「大丈夫です、リリズが遅れてしまう。タクシーを拾えますから」 「そうか」 そんな会話をしてリリズと別れた。 子どもの時、非力だった僕は教会で祈ることしか出来なかった。どうか、母が無事でいますようにと。 あんなに強くて思い通りに道を切り開いているリリズも、もしかしたら何かに祈らずにはいられないのだろうか。 リリズのことだから勝負前に気持ちを落ち着かせるためのただのルーティンかもしれない。 それでもリリズと共に祈る時間は、あの時の“藁をも縋る思い“だった自分を救い上げているように思えた。

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