2 / 40
第一章 高等部 1話 壊れた日常1
朝の校舎は、磨かれた床の匂いがした。
古い木の扉。
高い天井。
廊下の壁に並ぶ、歴代卒業生の写真。
元総理。
現職閣僚。
省庁の幹部。
大企業の会長。
どこかのニュースで見た顔が、額縁の中で静かに笑っている。
この学校では、それが特別な景色ではなかった。
幼等部から大学まで続く一貫校で、ここにいる子どもたちの多くは、家の名前と一緒に育つ。
廊下の額縁に並ぶ卒業生たちは、彼らにとって遠い偉人というより、親や親戚や、将来どこかで顔を合わせる相手に近かった。
生徒会室の前には、朝から数人の生徒が集まっていた。
光出涼 は、その中心に立っていた。
黒い髪。
白い肌。
整った制服。
柔らかな目元。
薄い唇。
整いすぎているのに、主張の強い顔ではない。
けれど、視線が離れない。
派手な造形ではなかった。強い印象を残す種類の美貌でもない。
ただ、目と鼻と唇の位置、輪郭の収まり方、白い肌に落ちる影の静けさまで、すべてが不自然なくらい美しいと感じる場所にあった。
涼は笑っていた。
柔らかく、穏やかに。
周囲の声に相槌を打ち、必要なところで少し目を細める。
その仕草は確かに人の輪の中心にあるのに、涼自身だけが、そこから半歩離れた場所に立っているように見えた。
近くにいる。
誰にでも優しく見える。
それなのに、誰のものにもならない。
朝の光の中で、涼は乱れなく整っていた。
「光出くん、来賓席の件なんだけど」
三年の委員が、声を潜めて言った。
「理事会側から追加が出た。急に一人増えるらしい」
「誰?」
「衆議院の先生。名前はここ」
涼は資料へ視線を落とした。
一秒。
二秒。
それだけで、周囲の空気が少し変わる。
「保護者席には入れない方がいいかな」
涼は静かに言った。
「来賓扱いにしようか。保護者代表と同じ列に置くと、後から面倒になる」
「面倒?」
「席順は、好意として解釈されるから」
委員が少し笑った。
「高校の文化祭で?」
「高校の文化祭だから、かな」
涼は柔らかく返した。
その場にいた数人が、小さく納得した顔をする。
誰も、それを大げさだとは思わない。
この学校では、来賓席の並び一つにも意味がある。
誰を前に出し、誰を横へ置き、誰を同じ列に並べるか。
それだけで、家同士の距離や学校側の判断が読まれる。
涼はそれを、教師よりも分かっていた。
---
ふと、委員が言う。
「光出家の先生方は今年も来るの?」
「本家の話?」
「さあ。理事会が気にしてた」
「どうだろう、現時点では気にしなくていいよ」
「じゃあ、修正案を昼までに出す」
委員が言う。
「うん。導線も一緒に直しておいてくれる?挨拶後に理事長と重なる」
「分かった」
「文面は見るよ」
「助かる」
会話はそれで終わった。
短い。
けれど、問題は片付いた。
光出涼はそういう人間だった。
声を荒げない。
命令もしない。
ただ、誰も気づかない場所にある火種を先に見つけて、静かに水をかける。
周囲はそれを、優秀さだと思っているし、実際、優秀だった。
それだけなら、何の問題もなかった。
「光出くん」
廊下の奥から、女性教員の声がした。
涼は顔を上げた。
「はい」
声は変わらない。
表情も変わらない。
女性教員は封筒を持って近づいてくる。
淡い香水の匂いが、朝の空気に混ざった。
「昨日の件、少し確認してもいい?」
「はい」
涼は自然に頷いた。
自然に。
完璧に。
女性教員が隣へ立つ。
封筒から紙を取り出し、涼の手元へ差し出した。
その瞬間、涼の指先が止まった。
本当に、一瞬だった。
紙を受け取る親指。
袖口に触れた左手。
浅くなった呼吸。
誰も気づかない。
委員も。
教師も。
通り過ぎる生徒も。
ともだちにシェアしよう!

