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第一章 高等部 1話 壊れた日常1

朝の校舎は、磨かれた床の匂いがした。 古い木の扉。 高い天井。 廊下の壁に並ぶ、歴代卒業生の写真。 元総理。 現職閣僚。 省庁の幹部。 大企業の会長。 どこかのニュースで見た顔が、額縁の中で静かに笑っている。 この学校では、それが特別な景色ではなかった。 幼等部から大学まで続く一貫校で、ここにいる子どもたちの多くは、家の名前と一緒に育つ。 廊下の額縁に並ぶ卒業生たちは、彼らにとって遠い偉人というより、親や親戚や、将来どこかで顔を合わせる相手に近かった。 生徒会室の前には、朝から数人の生徒が集まっていた。 光出涼(ミツイデリョウ)は、その中心に立っていた。 黒い髪。 白い肌。 整った制服。 柔らかな目元。 薄い唇。 整いすぎているのに、主張の強い顔ではない。 けれど、視線が離れない。 派手な造形ではなかった。強い印象を残す種類の美貌でもない。 ただ、目と鼻と唇の位置、輪郭の収まり方、白い肌に落ちる影の静けさまで、すべてが不自然なくらい美しいと感じる場所にあった。 涼は笑っていた。 柔らかく、穏やかに。 周囲の声に相槌を打ち、必要なところで少し目を細める。 その仕草は確かに人の輪の中心にあるのに、涼自身だけが、そこから半歩離れた場所に立っているように見えた。 近くにいる。 誰にでも優しく見える。 それなのに、誰のものにもならない。 朝の光の中で、涼は乱れなく整っていた。 「光出くん、来賓席の件なんだけど」 三年の委員が、声を潜めて言った。 「理事会側から追加が出た。急に一人増えるらしい」 「誰?」 「衆議院の先生。名前はここ」 涼は資料へ視線を落とした。 一秒。 二秒。 それだけで、周囲の空気が少し変わる。 「保護者席には入れない方がいいかな」 涼は静かに言った。 「来賓扱いにしようか。保護者代表と同じ列に置くと、後から面倒になる」 「面倒?」 「席順は、好意として解釈されるから」 委員が少し笑った。 「高校の文化祭で?」 「高校の文化祭だから、かな」 涼は柔らかく返した。 その場にいた数人が、小さく納得した顔をする。 誰も、それを大げさだとは思わない。 この学校では、来賓席の並び一つにも意味がある。 誰を前に出し、誰を横へ置き、誰を同じ列に並べるか。 それだけで、家同士の距離や学校側の判断が読まれる。 涼はそれを、教師よりも分かっていた。 --- ふと、委員が言う。 「光出家の先生方は今年も来るの?」 「本家の話?」 「さあ。理事会が気にしてた」 「どうだろう、現時点では気にしなくていいよ」 「じゃあ、修正案を昼までに出す」 委員が言う。 「うん。導線も一緒に直しておいてくれる?挨拶後に理事長と重なる」 「分かった」 「文面は見るよ」 「助かる」 会話はそれで終わった。 短い。 けれど、問題は片付いた。 光出涼はそういう人間だった。 声を荒げない。 命令もしない。 ただ、誰も気づかない場所にある火種を先に見つけて、静かに水をかける。 周囲はそれを、優秀さだと思っているし、実際、優秀だった。 それだけなら、何の問題もなかった。 「光出くん」 廊下の奥から、女性教員の声がした。 涼は顔を上げた。 「はい」 声は変わらない。 表情も変わらない。 女性教員は封筒を持って近づいてくる。 淡い香水の匂いが、朝の空気に混ざった。 「昨日の件、少し確認してもいい?」 「はい」 涼は自然に頷いた。 自然に。 完璧に。 女性教員が隣へ立つ。 封筒から紙を取り出し、涼の手元へ差し出した。 その瞬間、涼の指先が止まった。 本当に、一瞬だった。 紙を受け取る親指。 袖口に触れた左手。 浅くなった呼吸。 誰も気づかない。 委員も。 教師も。 通り過ぎる生徒も。

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