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第一章 高等部 1話 壊れた日常3

数分後。 校舎裏の、日の刺さない階段の踊り場に、涼はいた。 校舎や校庭から死角になる場所。 朝の冷たい風が入り込む。 土の匂い。 遠くの運動部の声。 下の階から聞こえる生徒たちのざわめき。 ここだけが、学校から少し外れていた。 政輝は先に来ていた。 手すりにもたれて、涼を見ている。 「涼」 人前では呼ばない名前を、この場所でだけ呼ぶ。 涼は返事をしなかった。 階段を降りる足取りは乱れていない。 背筋も伸びている。 資料も落としていない。 ただ、顔色が白い。 唇の色が薄い。 呼吸が浅い。 政輝は一歩近づいた。 涼の視線が、わずかに揺れる。 それを見て、政輝は止まった。 触れない。 まだ。 「涼」 また、政輝が言った。 答えが欲しいわけではなかった。 涼は少し遅れて、瞬きをした。 「……問題ない」 嘘だった。 怖かった、とも。 気持ち悪かった、とも。 思い出した、とも。 言わない。 涼はそういうことを、言葉にしない。 言葉にしても状況は変わらないと、もう知っている。 政輝も、それ以上聞かなかった。 「……政輝」 「ん」 涼は名前を呼んだきり、反応しない。 けれど、政輝の袖口を指の色が白くなるほど掴んでいた。 涼が何を欲しがっているか、政輝はもう分かっていた。 --- 政輝は声を落とす。 普段の久遠政輝からは想像しにくい、低く柔らかい声だった。 「触れていいか」 「……ん」 その瞬間だけ、涼は少し目を伏せた。 手すりを握っていた指が、ゆっくり離れる。 政輝は、その手首を掴まなかった。 掌の下へ、自分の指を差し入れるように触れる。 逃げられる触れ方。 拒める触れ方。 それでも、そこにあると分かる触れ方。 涼の指先は冷たかった。 震えている。 政輝は何も言わない。 涼の呼吸だけが、踊り場に小さく残っていた。 浅い。 短い。 けれど、壊れきってはいない。 「座れ」 政輝が言った。 涼は首を振る。 「戻る」 「座れ」 「資料が」 「知るか」 涼は政輝を見た。 外では絶対に見せない、不満そうな顔だった。 「命令するな」 普段の光出涼を知る人が聞いたら、驚くほど粗い言い方だった。 「命令じゃねぇ」 「じゃあなんだ」 「お願い」 涼は黙った。 政輝は表情を変えない。 説得もしない。 慰めもしない。 ただ、そこから動かない。 涼はしばらく政輝を見ていた。 「…下手なお願いだな」 やがて、諦めたように階段へ腰を下ろす。 制服が汚れないように、膝の上へ資料を置いた。 まだ資料を読むつもりでいる。 政輝は黙って、その紙を取り上げた。 涼の眉が少し寄る。 「昼までに出す予定だ」 「後で」 「今やれば早い」 「落ち着いてからの方が効率がいいだろ」 涼は黙った。 言葉が消える。 政輝は視線を落とし、涼の指を見る。 まだ冷たい。 まだ白い。 けれど、袖口を掴む力は抜けていて、温度は少しずつ戻ってきている。 窓の外で、朝練を終えた生徒たちの声が遠ざかる。 校舎の中では、もうすぐホームルームが始まる。 涼は息を吐いた。 さっきより少しだけ、深い。 政輝はその呼吸を確認してから、資料を返した。 「戻れるか」 「戻る」 「倒れんなよ」 「大丈夫だ」 「信用できねぇな」 「じゃあ聞くな」 ほんの少しだけ、ふ、と涼が笑う。 二人きりの時だけの声だった。 政輝はそれを聞いて、ようやく手を離した。 「次、もっと早くしろ」 「何が」 「合図」 涼はネクタイに触れた。 さっきと同じ場所。 「結果としては同じだろ」 「俺は同じじゃない」 「…過保護だな」 「お前だからな」 涼は資料を受け取り、立ち上がる。 背筋を伸ばす。 制服の皺を払う。 髪を整える。 そして、階段の上へ戻る頃には、もういつもの顔になっていた。 穏やかで。 柔らかくて。 何も壊れていないような顔。 政輝はそれを見送ってから、遅れて教室へ向かった。

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