6 / 40

第一章 高等部 2話 完璧な通常運転1

昼休みの校舎は、朝より少しざわついていた。 食堂へ向かう生徒の声。 階段を駆け下りる下級生。 廊下に貼られた文化祭準備の掲示。 高い窓から入る光が、磨かれた床に細く伸びている。 光出涼は、生徒会室の前に立っていた。 午前の授業を終えたばかりなのに、机の上にはもう別の資料が重ねられている。 来賓席の修正案、寮の当番表、文化祭当日の動線、教師から預かった封筒。 どれも急ぎではない。 けれど、どれも放っておけば後から形を変えて面倒になるものだった。 「光出くん、寮の洗濯室の件なんだけど」 二年の寮委員が、少し困った顔で言った。 「下級生が時間守らないって、三年から苦情来てる」 涼は資料から目を上げた。 「当番表は守れてる?」 「一応。でも、終わったあと洗濯物を取りに来るのが遅いらしい」 「じゃあ時間じゃなくて、使用後の回収ルールを明文化しようか」 涼は机の上の紙を一枚引き寄せた。 「十五分以上放置されたものは、備え付けの籠に移す。移した人が悪くならないように、寮長名で掲示する」 「助かる」 「揉める前に出しておいた方がいいかな」 「そうだね」 寮委員はほっとした顔をした。 「光出くんが言うと角が立たないから」 涼は少しだけ笑った。 「そうかな」 柔らかい声だった。 否定もしない。 肯定もしない。 相手が安心して立ち去れる温度だけを置く。 寮委員が去ると、今度は別の生徒が来た。 「光出くん、体育館ステージの照明確認、今日だっけ?」 「今日の放課後。十六時から」 「あ、委員長が部活で遅れるって」 「じゃあ先に設備係だけで確認しようか。委員長には後で結果を共有する」 「それでいい?」 「止めると全部遅れるから」 涼はペンを動かしながら答えた。 声に迷いはない。 相手が抱えてきた小さな混乱を、涼は一度受け取って、整理し、別の形にして返す。 そのたびに、周囲の表情が少しずつ軽くなっていく。 光出くんに聞けば大丈夫。 そういう空気が、生徒会室前には当たり前みたいにあった。 その少し離れた廊下の壁際で、政輝は立っていた。 片手に鞄。 もう片方はポケット。 眠そうな顔をしている。 午前の授業も半分は寝ていた。教師に怒られても、返事だけしてまた机に伏せた。 周囲の生徒はそれをいつものこととして笑っていた。 けれど今は、寝ていない。 涼を見ていた。 顔ではない。 手。 袖口。 資料を持つ指。 呼吸。 返事の間。 涼はいつも通りだった。 柔らかく笑い、短く答え、誰にも余計な恥をかかせない。下級生にも教師にも同じ温度で接し、頼まれたことを引き受けすぎず、かといって突き放しもしない。 完璧だった。 だからこそ、政輝には分かる。 今日は少し多い。 袖口に触れる回数が。 「いつもだろ」 男子は笑った。 「まあな」 それで会話は終わった。 政輝はそのまま涼を見る。 涼がまた、誰かに呼ばれた。 今度は女性教員だった。 「光出くん、少しだけいい?」 廊下の奥から近づいてくる。 手にはクリアファイル。 淡い香水の匂いが、人の流れに混ざって漂った。 涼の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。 「はい」 声は変わらない。 表情も変わらない。 女性教員は隣へ立ち、ファイルを開いた。 「この来賓控室の割り振り、理事長から変更が入ったの。ここ、見てもらえる?」 「はい」 涼は自然にファイルへ目を落とす。 女性教員の指先が、紙面を指す。 距離が近い。 袖が触れそうになる。 涼は動かない。 動かないまま、呼吸だけが少し浅くなる。 怖い。 違う。 ただの先生だ。 普通にしろ。 何も起きていない。 涼は瞬きを一度だけした。 そして、紙面を見ながら言った。 「控室を分けるなら、こちらの導線も変えた方がいいですね」 「やっぱり?」 「同じ廊下で鉢合わせると、挨拶が長くなります。開会前に押すので」 「なるほど」 女性教員は少し笑った。 「助かるわ」 「確認して、放課後までに戻します」 「お願いね」 ファイルを受け取る時、涼の指先がわずかに止まった。 誰も気づかない。 女性教員も。 近くにいた生徒も。 けれど政輝は見ていた。 涼はファイルを抱えたまま、いつもの顔で他の生徒へ向き直る。 「ごめん、今の続きだけど」 声は柔らかい。 何も乱れていない。 そのはずだった。 チャイムが鳴った。 午後の授業が始まる。 生徒たちがそれぞれの教室へ散っていく。 涼も資料をまとめ、生徒会室の鍵を閉めた。 政輝は廊下の端から動かない。 涼がこちらへ歩いてくる。 人前だから、涼は政輝を名前で呼ばない。 政輝も涼を呼ばない。 すれ違う少し前。 涼の指が、ネクタイの結び目に触れた。 朝と同じ場所。 直すほどではない。 緩めるほどでもない。 ただ触れただけ。 政輝はその合図を見る。 それだけで十分だった。 涼は何も言わずに教室へ入っていく。 政輝は少し遅れて続いた。

ともだちにシェアしよう!