7 / 40
第一章 高等部 2話 完璧な通常運転2
午後の教室は、昼休みの熱がまだ残っていた。
窓が開いている。
校庭の声が遠く聞こえる。
涼は前方の席に座り、何事もなかったように教科書を開いた。ファイルは机の端へきちんと置かれている。背筋は伸びている。隣の生徒が小さく何かを聞くと、涼は短く答えた。
「そこは次の範囲だと思う」
「ありがとう」
「うん」
いつもの涼だった。
政輝は後ろの席へ座る。
鞄を机の横へ掛ける。
教師が入ってくる前から、もう頬杖をついていた。
隣の男子が笑う。
「寝るなよ」
「無理」
「早い」
「始まる前から眠い」
「お前ほんと終わってるな」
「知ってる」
教師が教室へ入る。
授業が始まる。
涼はノートを取る。
政輝は寝る。
教室の中では、それが普通だった。
ただ、政輝は完全には眠らなかった。
眠りに落ちかけるたび、前方を見る。
涼の肩。
涼の指。
涼の首筋。
涼は一度だけ、ペンを持つ手を止めた。
一秒。
二秒。
それからまた動かす。
政輝は目を細める。
隣の男子が小声で言った。
「久遠、起きてんじゃん」
「うるせぇ」
「珍し」
「寝る」
「どっちだよ」
政輝は返さなかった。
目は閉じた。
でも耳だけは起きていた。
授業が終わる頃、涼は教師に呼ばれた。
「光出、この後少し残れるか」
「はい」
返事はすぐだった。
政輝は顔を上げる。
教師は黒板の前でプリントを揃えながら言った。
「文化祭の件で、三年の担当に確認を頼みたい。職員室まで来てくれ」
「分かりました」
涼は席を立つ。
何も変わらない。
けれど、机の端に置いた指が少し白い。
政輝は見ていた。
放課後の廊下は、朝とは違う騒がしさを持っていた。
部活へ向かう生徒。
文化祭準備の段ボール。
教室から漏れる笑い声。
涼はその中で、教師と職員室へ向かった。
政輝はすぐには追わない。
鞄を肩に掛け、廊下へ出る。
友人が言った。
「久遠、今日どっか行く?」
「無理」
「また即答」
「先行け」
「お前ほんと付き合い悪いな」
「知ってる」
政輝はそれだけ返して、廊下の壁にもたれた。
待っているようには見えない。
ただ怠そうに立っているだけ。
実際、怠かった。
眠い。
面倒。
帰りたい。
全部本当だった。
でも、目だけは職員室の方を見ている。
十分ほどして、涼が出てきた。
手にはまた新しい資料。
顔はいつも通り。
女性教員が隣にいる。
「ごめんね、急に増えて」
「いえ。確認しておきます」
「無理しないでね」
「ありがとうございます」
涼は柔らかく笑った。
その笑顔は完璧だった。
政輝は息を吐く。
涼がこちらへ向かって歩いてくる。
途中、後輩に呼び止められた。
「光出先輩、寮の掲示の件なんですけど」
「うん」
涼は立ち止まる。
資料を持ったまま、丁寧に話を聞く。
「文面は強すぎない方がいいかな。守れなかった人を責めるより、次から迷わないように書こう」
「はい」
「案を送ってくれたら見るよ」
「ありがとうございます」
後輩は安心した顔で頭を下げた。
涼は頷く。
そのまま歩き出す。
また別の生徒に呼ばれる。
「光出くん、ステージ確認って十六時だよね?」
「うん。先に設備だけ見よう」
「委員長遅れるって」
「聞いたよ。結果だけ共有するから大丈夫」
「助かる」
涼はまた笑う。
誰にも棘を刺さない。
誰にも距離を誤らせない。
誰も不安にさせない。
その代わり、自分の中に何が残るかは、誰にも見せない。
政輝は腕を組んだ。
涼がようやく近くまで来る。
人がいる。
だから何も言わない。
ただ、涼がすれ違う瞬間、資料を持っていない手が一瞬だけネクタイへ向かった。
さっきよりも、少し速い。
政輝はそれを見た。
涼は目を合わせない。
そのまま生徒会室の方へ歩く。
政輝は二歩遅れて歩き出した。
追っているようには見えない距離。
でも、離れすぎない距離。
階段の前で、涼が一度だけ止まった。
振り向かない。
けれど、指先がまたネクタイへ触れる。
今度は明確だった。
政輝は歩きながら、短く言った。
「後で」
周囲には聞こえない声。
涼は返事をしない。
ただ、一度だけ瞬きをして、階段を上がった。
放課後の校舎は、まだ明るい。
生徒会室には人がいる。
職員室にも人がいる。
寮へ戻れば、下級生がいる。
どこにも崩れる場所はない。
だから、落ち合う場所は決まっていた。
屋上。
人が来ない。
風がある。
空が見える。
涼は生徒会室の扉を開ける前に、ほんの少しだけ息を吸った。
そして次の瞬間には、いつもの顔で中へ入っていく。
「遅くなってごめんね」
声は穏やかだった。
中にいた委員たちが一斉に顔を上げる。
「光出くん、これ確認お願い」
「うん」
涼は資料を受け取り、席へ向かった。
生徒会長。
寮長。
教師にも生徒にも頼られる人。
誰かが困る前に、静かに問題を片付ける人。
その姿に、乱れはひとつもなかった。
廊下の外で、政輝は壁にもたれた。
寝不足で重い瞼をこすりながら、屋上へ続く階段の方を見る。
まだだ。
今はまだ、涼は動ける。
動けてしまう。
だから政輝は待つ。
涼が合図を出した時に、そこへ行けるように。
それだけを決めて、政輝はゆっくり目を閉じた。
ともだちにシェアしよう!

