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第一章 高等部 2話 完璧な通常運転2

午後の教室は、昼休みの熱がまだ残っていた。 窓が開いている。 校庭の声が遠く聞こえる。 涼は前方の席に座り、何事もなかったように教科書を開いた。ファイルは机の端へきちんと置かれている。背筋は伸びている。隣の生徒が小さく何かを聞くと、涼は短く答えた。 「そこは次の範囲だと思う」 「ありがとう」 「うん」 いつもの涼だった。 政輝は後ろの席へ座る。 鞄を机の横へ掛ける。 教師が入ってくる前から、もう頬杖をついていた。 隣の男子が笑う。 「寝るなよ」 「無理」 「早い」 「始まる前から眠い」 「お前ほんと終わってるな」 「知ってる」 教師が教室へ入る。 授業が始まる。 涼はノートを取る。 政輝は寝る。 教室の中では、それが普通だった。 ただ、政輝は完全には眠らなかった。 眠りに落ちかけるたび、前方を見る。 涼の肩。 涼の指。 涼の首筋。 涼は一度だけ、ペンを持つ手を止めた。 一秒。 二秒。 それからまた動かす。 政輝は目を細める。 隣の男子が小声で言った。 「久遠、起きてんじゃん」 「うるせぇ」 「珍し」 「寝る」 「どっちだよ」 政輝は返さなかった。 目は閉じた。 でも耳だけは起きていた。 授業が終わる頃、涼は教師に呼ばれた。 「光出、この後少し残れるか」 「はい」 返事はすぐだった。 政輝は顔を上げる。 教師は黒板の前でプリントを揃えながら言った。 「文化祭の件で、三年の担当に確認を頼みたい。職員室まで来てくれ」 「分かりました」 涼は席を立つ。 何も変わらない。 けれど、机の端に置いた指が少し白い。 政輝は見ていた。 放課後の廊下は、朝とは違う騒がしさを持っていた。 部活へ向かう生徒。 文化祭準備の段ボール。 教室から漏れる笑い声。 涼はその中で、教師と職員室へ向かった。 政輝はすぐには追わない。 鞄を肩に掛け、廊下へ出る。 友人が言った。 「久遠、今日どっか行く?」 「無理」 「また即答」 「先行け」 「お前ほんと付き合い悪いな」 「知ってる」 政輝はそれだけ返して、廊下の壁にもたれた。 待っているようには見えない。 ただ怠そうに立っているだけ。 実際、怠かった。 眠い。 面倒。 帰りたい。 全部本当だった。 でも、目だけは職員室の方を見ている。 十分ほどして、涼が出てきた。 手にはまた新しい資料。 顔はいつも通り。 女性教員が隣にいる。 「ごめんね、急に増えて」 「いえ。確認しておきます」 「無理しないでね」 「ありがとうございます」 涼は柔らかく笑った。 その笑顔は完璧だった。 政輝は息を吐く。 涼がこちらへ向かって歩いてくる。 途中、後輩に呼び止められた。 「光出先輩、寮の掲示の件なんですけど」 「うん」 涼は立ち止まる。 資料を持ったまま、丁寧に話を聞く。 「文面は強すぎない方がいいかな。守れなかった人を責めるより、次から迷わないように書こう」 「はい」 「案を送ってくれたら見るよ」 「ありがとうございます」 後輩は安心した顔で頭を下げた。 涼は頷く。 そのまま歩き出す。 また別の生徒に呼ばれる。 「光出くん、ステージ確認って十六時だよね?」 「うん。先に設備だけ見よう」 「委員長遅れるって」 「聞いたよ。結果だけ共有するから大丈夫」 「助かる」 涼はまた笑う。 誰にも棘を刺さない。 誰にも距離を誤らせない。 誰も不安にさせない。 その代わり、自分の中に何が残るかは、誰にも見せない。 政輝は腕を組んだ。 涼がようやく近くまで来る。 人がいる。 だから何も言わない。 ただ、涼がすれ違う瞬間、資料を持っていない手が一瞬だけネクタイへ向かった。 さっきよりも、少し速い。 政輝はそれを見た。 涼は目を合わせない。 そのまま生徒会室の方へ歩く。 政輝は二歩遅れて歩き出した。 追っているようには見えない距離。 でも、離れすぎない距離。 階段の前で、涼が一度だけ止まった。 振り向かない。 けれど、指先がまたネクタイへ触れる。 今度は明確だった。 政輝は歩きながら、短く言った。 「後で」 周囲には聞こえない声。 涼は返事をしない。 ただ、一度だけ瞬きをして、階段を上がった。 放課後の校舎は、まだ明るい。 生徒会室には人がいる。 職員室にも人がいる。 寮へ戻れば、下級生がいる。 どこにも崩れる場所はない。 だから、落ち合う場所は決まっていた。 屋上。 人が来ない。 風がある。 空が見える。 涼は生徒会室の扉を開ける前に、ほんの少しだけ息を吸った。 そして次の瞬間には、いつもの顔で中へ入っていく。 「遅くなってごめんね」 声は穏やかだった。 中にいた委員たちが一斉に顔を上げる。 「光出くん、これ確認お願い」 「うん」 涼は資料を受け取り、席へ向かった。 生徒会長。 寮長。 教師にも生徒にも頼られる人。 誰かが困る前に、静かに問題を片付ける人。 その姿に、乱れはひとつもなかった。 廊下の外で、政輝は壁にもたれた。 寝不足で重い瞼をこすりながら、屋上へ続く階段の方を見る。 まだだ。 今はまだ、涼は動ける。 動けてしまう。 だから政輝は待つ。 涼が合図を出した時に、そこへ行けるように。 それだけを決めて、政輝はゆっくり目を閉じた。

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