8 / 40
第一章 高等部 3話 屋上1
放課後の校舎は、夕方の光を受けて少しだけ赤くなっていた。
文化祭準備の声が、あちこちの教室から漏れている。机を引きずる音。段ボールを運ぶ足音。廊下の端で笑う下級生の声。
生徒会室の中も、まだ人が残っていた。
「じゃあ、体育館の導線はこの形で出します」
三年の委員が言った。
涼は資料へ目を落としたまま頷いた。
「うん。来賓側と一般生徒側を分けておけば、当日の混乱は減ると思う」
「寮の掲示は?」
「文面を少し直した。責任者を責める書き方にしない方がいいかな」
「了解」
「明日の朝、寮監にも確認しておくよ」
いつも通りだった。
光出涼は、いつも通りに座っていた。
背筋を伸ばし、資料を揃え、誰が何を持っているのかを把握している。誰かが迷えば、すぐに短い言葉で道筋を作る。責めない。急かさない。けれど、停滞させない。
その場にいる誰もが、涼の声を聞くと少し安心した顔になる。
光出くんがいるなら大丈夫。
そういう空気が、生徒会室には当たり前にあった。
「今日はここまでにしようか」
涼が言うと、委員たちが一斉に息を吐いた。
「助かった」
「光出くん、明日も朝いる?」
「いるよ」
「じゃあまた確認させて」
「うん」
柔らかく笑う。
穏やかに。
何も乱れていない顔で。
最後の一人が出ていくまで、涼は席を立たなかった。
扉が閉まる音を聞いてから、机の上の資料を揃える。
一枚。
二枚。
三枚。
指先が少し冷えていた。
それに気付いて、涼は手を止める。
違う。
疲れているだけだ。
今日は少し長かった。
人が多かった。
声も多かった。
頼まれたことも多かった。
だから、ただ疲れている。
それだけだ。
涼は鍵束を取り出した。
生徒会長用の鍵。
生徒会室、資料棚、倉庫、そして屋上。
本来、生徒が自由に出入りする場所ではない。けれど生徒会長と寮長を兼ねる涼には、文化祭準備や施設確認の名目で鍵が預けられていた。
涼は資料を鞄へしまい、扉を閉めた。
廊下に出る。
人の声がまだ残っている。
階段の方へ歩きながら、涼は一度だけネクタイに触れた。
朝よりも、昼よりも、はっきりした合図だった。
政輝は多分、見ている。
そう思った。
思っただけで、少し呼吸が楽になる。
屋上へ行く。
風に当たる。
煙草を吸う。
政輝が来る。
それで戻る。
ただそれだけのことだった。
階段へ向かう途中、踊り場の上から女子生徒の声がした。
「あ、待って、これ重い」
「大丈夫?」
「平気、平気」
数人の女子生徒が、文化祭の装飾らしい布とパネルを抱えて階段を降りていた。
涼は自然に端へ寄る。
通れるように。
その時、一番前にいた女子生徒の足が段差を外した。
「あ」
身体が後ろへ傾く。
涼は考えるより先に動いた。
鞄を落とさないように左手で押さえ、右手で彼女の背中を支えた。
制服越しの背中。
細い肩。
髪から香るシャンプーの匂い。
女子生徒は落ちなかった。
ほんの一瞬、涼の腕に体重が乗っただけで、すぐに手すりを掴んだ。
「すみません、ありがとうございます」
女子生徒が慌てて頭を下げる。
涼は手を離した。
「怪我は?」
声は普通だった。
自分でも驚くほど、いつも通りだった。
「大丈夫です。本当にすみません」
「足元、気をつけて」
「はい」
女子生徒たちは、何度も礼を言いながら階段を降りていく。
涼はその場に立っていた。
背中を支えた右手が、まだ少し熱い。
違う。
助けただけだ。
階段から落ちそうになった人を支えた。
普通のことだ。
相手は何もしていない。
ただの女子生徒だ。
礼を言われただけだ。
何もない。
何も起きていない。
涼は息を吸った。
吸えなかった。
喉の奥で、空気が引っかかる。
視界の端が少し白くなる。
まずい。
そう思った。
思った瞬間に、身体が先に動いた。
屋上。
行け。
ここで止まるな。
廊下には人がいる。
生徒会室には後輩がいる。
階段にも、まだ声が残っている。
崩れる場所はない。
涼は階段を上がった。
足音は乱れていない。
背筋も伸びている。
ただ、息だけが浅くなっていく。
ともだちにシェアしよう!

