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第一章 高等部 3話 屋上1

放課後の校舎は、夕方の光を受けて少しだけ赤くなっていた。 文化祭準備の声が、あちこちの教室から漏れている。机を引きずる音。段ボールを運ぶ足音。廊下の端で笑う下級生の声。 生徒会室の中も、まだ人が残っていた。 「じゃあ、体育館の導線はこの形で出します」 三年の委員が言った。 涼は資料へ目を落としたまま頷いた。 「うん。来賓側と一般生徒側を分けておけば、当日の混乱は減ると思う」 「寮の掲示は?」 「文面を少し直した。責任者を責める書き方にしない方がいいかな」 「了解」 「明日の朝、寮監にも確認しておくよ」 いつも通りだった。 光出涼は、いつも通りに座っていた。 背筋を伸ばし、資料を揃え、誰が何を持っているのかを把握している。誰かが迷えば、すぐに短い言葉で道筋を作る。責めない。急かさない。けれど、停滞させない。 その場にいる誰もが、涼の声を聞くと少し安心した顔になる。 光出くんがいるなら大丈夫。 そういう空気が、生徒会室には当たり前にあった。 「今日はここまでにしようか」 涼が言うと、委員たちが一斉に息を吐いた。 「助かった」 「光出くん、明日も朝いる?」 「いるよ」 「じゃあまた確認させて」 「うん」 柔らかく笑う。 穏やかに。 何も乱れていない顔で。 最後の一人が出ていくまで、涼は席を立たなかった。 扉が閉まる音を聞いてから、机の上の資料を揃える。 一枚。 二枚。 三枚。 指先が少し冷えていた。 それに気付いて、涼は手を止める。 違う。 疲れているだけだ。 今日は少し長かった。 人が多かった。 声も多かった。 頼まれたことも多かった。 だから、ただ疲れている。 それだけだ。 涼は鍵束を取り出した。 生徒会長用の鍵。 生徒会室、資料棚、倉庫、そして屋上。 本来、生徒が自由に出入りする場所ではない。けれど生徒会長と寮長を兼ねる涼には、文化祭準備や施設確認の名目で鍵が預けられていた。 涼は資料を鞄へしまい、扉を閉めた。 廊下に出る。 人の声がまだ残っている。 階段の方へ歩きながら、涼は一度だけネクタイに触れた。 朝よりも、昼よりも、はっきりした合図だった。 政輝は多分、見ている。 そう思った。 思っただけで、少し呼吸が楽になる。 屋上へ行く。 風に当たる。 煙草を吸う。 政輝が来る。 それで戻る。 ただそれだけのことだった。 階段へ向かう途中、踊り場の上から女子生徒の声がした。 「あ、待って、これ重い」 「大丈夫?」 「平気、平気」 数人の女子生徒が、文化祭の装飾らしい布とパネルを抱えて階段を降りていた。 涼は自然に端へ寄る。 通れるように。 その時、一番前にいた女子生徒の足が段差を外した。 「あ」 身体が後ろへ傾く。 涼は考えるより先に動いた。 鞄を落とさないように左手で押さえ、右手で彼女の背中を支えた。 制服越しの背中。 細い肩。 髪から香るシャンプーの匂い。 女子生徒は落ちなかった。 ほんの一瞬、涼の腕に体重が乗っただけで、すぐに手すりを掴んだ。 「すみません、ありがとうございます」 女子生徒が慌てて頭を下げる。 涼は手を離した。 「怪我は?」 声は普通だった。 自分でも驚くほど、いつも通りだった。 「大丈夫です。本当にすみません」 「足元、気をつけて」 「はい」 女子生徒たちは、何度も礼を言いながら階段を降りていく。 涼はその場に立っていた。 背中を支えた右手が、まだ少し熱い。 違う。 助けただけだ。 階段から落ちそうになった人を支えた。 普通のことだ。 相手は何もしていない。 ただの女子生徒だ。 礼を言われただけだ。 何もない。 何も起きていない。 涼は息を吸った。 吸えなかった。 喉の奥で、空気が引っかかる。 視界の端が少し白くなる。 まずい。 そう思った。 思った瞬間に、身体が先に動いた。 屋上。 行け。 ここで止まるな。 廊下には人がいる。 生徒会室には後輩がいる。 階段にも、まだ声が残っている。 崩れる場所はない。 涼は階段を上がった。 足音は乱れていない。 背筋も伸びている。 ただ、息だけが浅くなっていく。

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