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第一章 高等部 3話 屋上2
屋上の扉の前に着く。
鍵束を取り出す。
金属が震えた。
一度目、鍵穴に入らない。
涼は目を伏せる。
違う。
落ち着け。
ただの鍵だ。
指先が冷たい。
息が足りない。
音が遠い。
二度目で鍵が入った。
回す。
扉を開ける。
夕方の風が一気に入ってきた。
涼は屋上へ出て、扉を閉めた。
その瞬間、膝から力が抜けた。
壁に手をつく。
鞄が床に落ちる。
資料の角が少しだけはみ出した。
息が吸えない。
吸っているのに、足りない。
胸が上がる。
喉が鳴る。
空気が入らない。
違う。
何も起きていない。
階段で支えただけだ。
彼女は怪我をしていない。
自分も何もされていない。
普通にしろ。
戻れ。
戻れ。
涼は壁に背を預けて座り込んだ。
視界が揺れる。
屋上のコンクリート。
落ちた鞄。
夕方の空。
全部が遠く見えた。
手が震えている。
止めろ。
見せるな。
ここには誰もいない。
いや。
来る。
政輝が来る。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ緩みかけた。
その緩みを身体が別の形で拾う。
顔が熱くなる。
目の奥が滲む。
呼吸の苦しさとは違う、嫌な熱が喉元に上がってくる。
違う。
これは違う。
今じゃない。
やめろ。
涼は目を閉じた。
拳を握る。
爪が掌に食い込む。
それでも身体は言うことを聞かない。
恐怖と熱と吐き気が、同じ場所で絡まっている。
気持ち悪い。
そう思った。
自分の身体が。
息がさらに乱れた。
屋上の扉が開く音がした。
「涼」
政輝の声だった。
低くて、短い。少し焦っている。
それだけで、涼の視線がわずかに動く。
政輝は走ってきたのか、少し息が上がっていた。けれど近づきすぎない場所で止まる。
顔を見る。
肩を見る。
指先を見る。
呼吸を見る。
「こっち見ろ」
涼は返事をしない。
できない。
「涼」
呼ばれる。
その声に、ようやく視線が上がる。
政輝の青い目が、夕方の光の中で暗く見えた。
「吐け」
涼は首を振る。
吸えないのに、吐けるわけがない。
政輝は膝をついた。
「吸うな。吐け」
短い。
命令みたいな声。
でも怒ってはいない。
「……っ」
喉から変な音が出た。
政輝は手を伸ばしかけて、止める。
「触るぞ」
涼は答えない。
ただ、視線だけが政輝の手へ落ちた。
逃げない。
拒まない。
それを政輝は見た。
ゆっくり、涼の肩ではなく、手の甲へ触れる。
逃げられる場所。
拒める場所。
涼の指が跳ねた。
それでも離れない。
「手、開け」
涼はうまく動かせない。
政輝が指の上へ軽く自分の指を乗せる。
押し開くのではなく、ほどくみたいに。
少しずつ、爪が掌から離れた。
「そう」
涼の呼吸はまだ壊れている。
短くて、速い。
目が潤んでいる。
顔も赤い。
涼本人が、それを一番嫌がっている顔だった。
政輝はそこには触れなかった。
見えている。
気付いている。
けれど言わない。
「床見んな。俺見ろ」
「……っ、は……」
「吐け」
涼の肩が震える。
一度。
二度。
ようやく、少しだけ息が吐けた。
その分だけ、次の呼吸が入る。
まだ浅い。
でもさっきよりはましだった。
政輝は何も褒めない。
慰めない。
ただ、そこにいる。
風が吹いた。
屋上のフェンスが小さく鳴る。
遠くで部活の掛け声が聞こえた。
学校はいつも通りに動いている。
その真上で、生徒会長兼寮長の光出涼が、壁際に座り込んで息を乱している。
制服も、髪も、まだ大きくは乱れていない。
けれど顔は白く、頬だけが不自然に赤い。
資料を持てば誰もが安心する人間が、今は自分の呼吸ひとつ戻せない。
その落差を、政輝だけが見ていた。
やがて、呼吸が少しずつ戻ってきた。
涼は壁に頭を預ける。
目元に残った水気を、手の甲で乱暴に拭った。
「……煙草」
掠れた声。
政輝は少しだけ眉を寄せる。
「吸えんのか」
「あぁ」
政輝は小さく息を吐く。
それを見ながら涼が一言言う。
「火」
「自分でやれ」
「無理」
短い返事だった。
政輝はもう一度小さく息を吐いて、ポケットから煙草を出した。
涼に一本渡す。
指先が触れる。
涼の手はまだ震えていた。
政輝はライターに火をつける。
風を避けるように掌で覆う。
涼は煙草を咥え、火に近づける。
吸い込む。
煙が肺に入る。
その瞬間、涼の肩が少し落ちた。
過呼吸で壊れた息が、煙草を吸う動作で強制的に形を取り戻していく。
政輝も隣で煙草に火をつけた。
二人は屋上の壁際に座って、しばらく何も言わなかった。
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