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第一章 高等部 3話 屋上3

夕方の風が煙を流す。 涼の横顔は、まだ少し赤い。 目元も潤んでいる。 本来なら、誰にも見せない顔だった。 政輝は視線を外す。 見ないふりをする。 涼がそれを望んでいるのを知っているから。 「何があった」 聞き方は短かった。 涼は煙を吐いた。 「階段」 「ん」 「落ちそうになった」 「誰が」 「女子」 政輝は黙った。 それだけで足りた。 女子生徒が階段から落ちそうになった。 涼が支えた。 何も起きていない。 誰も悪くない。 だから余計に、涼は自分の反応を許せない。 「怪我は」 「ない」 「お前は」 「ない」 政輝は横目で見る。 涼は煙草を持つ指を見ていた。 「そうは見えねぇな」 涼は少しだけ笑った。 乾いた笑いだった。 「便利だな」 「何が」 「壊れてても動く」 政輝の指が止まった。 涼は煙草の灰を落とす。 表情は静かだった。 発作の後とは思えないほど、声も戻っている。 だからこそ、言葉だけがひどく浮いて聞こえた。 「階段から落ちそうなら支える」 涼は続ける。 「資料も持てる。会議もできる」 煙が風に散る。 「便利だろ」 政輝は何も言わなかった。 そんなことない、とは言わない。 大丈夫だ、とも言わない。 言ったところで、涼は受け取らない。 代わりに、政輝は涼の指先から煙草を取った。 涼が眉を寄せる。 「まだ吸ってる」 「知ってる」 政輝は煙草を自分の指に移し、火のついた先を少し離した。 涼が取り返そうと手を伸ばす。 その手首を、政輝は掴まなかった。 ただ避けるように距離を詰めて、涼の顎をほんの少しだけ上げた。 一瞬、政輝が停止する。 触れていいか、と聞くより早く、涼の目が政輝を見た。 逃げない。 拒まない。 政輝はそれを見て、短くキスをした。 煙草の匂いがした。 まだ乱れの残る息を塞ぐように。 乱れたものを無理に整えるのではなく、ここに戻せと示すように。 涼の指が、政輝の袖口を掴んだ。 一瞬だけ強く。 すぐに離す。 唇が離れると、涼は少しだけ目を伏せた。 顔の赤みは、発作の残りなのか、別の熱なのか分からない。 政輝は何も言わず、奪った煙草を自分の口元へ持っていった。 涼がそれを見て、低く言う。 「返せ」 「やだ」 「子供か」 「お前よりは大人」 「どの口で言ってる」 涼の声はまだ掠れていたが、少しだけいつもの調子に戻っていた。 政輝は壁に背を預けたまま、煙を吐く。 「今日もまた寝てて怒られてたな」 涼が言った。 その言い方は、責めているというより、思い出して少し呆れている温度だった。 「もう慣れた」 「慣れるな」 涼は小さく笑う。 「単位落としたらどうする」 「会長様がどうにかしてくれるだろ」 「お前の単位は管掌範囲外だ」 「冷てぇな」 「当然だろ」 涼は壁に頭を預けたまま、政輝を見る。 まだ目元は少し濡れている。 けれど声は戻りつつあった。 外で使う柔らかい声ではない。 人を安心させるための声でもない。 政輝にだけ向ける、少し粗くて、近い声。 「犬の世話は飼い主の義務だろ」 政輝が言うと、涼は一度だけ瞬きをした。 それから、薄い唇の端をほんの少し上げる。 「こんな駄犬を拾ったつもりはないよ」 「拾った後に文句言うな」 「拾ってない」 「じゃあ何」 「勝手についてきた」 政輝が短く笑った。 「ひでぇな」 「事実だろ」 「否定はしねぇけど」 涼も少しだけ笑った。 さっきまで、呼吸ひとつまともにできなかった人間とは思えないほど、静かな笑い方だった。 その変化を、政輝は見ていた。 涼とは、大きく崩れた後ほど、何でもない話をする。 授業で寝ていたこと。 単位のこと。 犬だとか飼い主だとか、くだらない言葉。 それらを足場にして、涼は少しずつ今へ戻る。 政輝は煙草を持ったまま、涼の隣に座り直した。 肩が触れるほどではない。 でも、手を伸ばせば届く距離。 風が吹いた。屋上のフェンスが小さく鳴る。 夕方の空は、ゆっくり色を変えていた。 涼はもう一度、政輝の指先にある煙草を見た。 それから諦めたように息を吐く。 「もう一本」 「駄目」 「政輝」 「吸いすぎ」 「お前もだろ」 「俺はいい」 「理不尽だな」 涼は少し笑った。 その顔にはまだ疲労が残っていた。 赤みも消えていない。 目元も完全には乾いていない。 けれど、さっきより呼吸は深い。 政輝はそれを見て、煙草の火をフェンス脇の携帯灰皿で消した。 涼が不満そうに目を向ける。 「本当に消したな」 「吸いすぎ」 「お前もだろ」 「俺はいい」 「理不尽だな」 「飼い主だからな」 涼は一瞬だけ黙った。 それから、目を伏せて笑う。 「拾った覚えはないって言っただろ」 「じゃあ何だよ」 涼は少し考える。 本気で考えるほどの話ではないのに、わざとらしく間を置いた。 「……いつの間にかいた」 政輝は短く笑った。 「ひでぇな」 「事実だ」 「否定はしねぇけど」 「だろ」 涼はそう言って、政輝の袖口へ指先で触れた。 掴むほどではない。 縋るほどでもない。 ただ、そこにあるか確かめるような触れ方だった。 政輝はその指を見た。 細い指。 まだ少し冷えている。 けれど、今はもう震えていない。 「いつの間にか、ね」 政輝が呟いた。 唇の端が、ほんの少しだけ上がる。 涼が横目で見る。 「何」 「別に」 「嘘」 政輝は、ふっと小さく笑った。 「お前、昔からそういう言い方するよな」 「そうか?」 「する」 涼は眉間に皺を寄せた。 本当に分からない、という顔だった。 さっきまで崩れていたくせに、そういう顔だけは妙に昔と変わらない。 政輝は屋上の壁に背を預けたまま、少しだけ目を細める。 「変わんねぇな」 「何が」 涼はさらに不思議そうな顔をする。 政輝は答えなかった。 政輝は覚えている。 初等部のころ。 春。 転校して、まだ教室の空気にも、日本語の速さにも、周囲の視線にも慣れていなかった頃。 教室中の空気が、ゆっくり自分へ向いた日のこと。 その空気を、涼が何でもない顔で変えた日のこと。 涼は今も隣で、不思議そうに政輝を見ている。 たぶん、本人は大したことだと思っていない。 昔も、今も。 だから政輝は、何も言わなかった。 夕方の風が屋上を抜ける。 煙草の匂いが薄くなっていく。 その向こうで、遠い教室の記憶がゆっくり開いていった。 初等部四年。 久遠政輝が、日本の学校へ転校してきた頃のことだった。

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