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第一章 高等部 4話 はじめて会った日6
小学三年、五月。
政輝が転校してきて、三週間が過ぎた頃だった。
昼休みは暑かった。
窓は開いていたけれど、入ってくる風は生ぬるい。教室の中では、給食を食べ終えた子どもたちが好き勝手に動いていた。椅子を引く音。机にぶつかる音。笑い声。誰かが名前を呼ぶ声。
政輝には、それが少し疲れた。
嫌いというほどではない。
ただ、うるさい。
この学校の子どもたちは、みんなよく喋る。
誰の家がどうだとか、どの先生が怖いとか、週末にどこへ行ったとか、何でもない話をずっと続けている。
政輝は窓側の後ろの席に戻り、机の中から本を出した。
英語の本だった。
日本語は分かる。
分かるけれど、頭が疲れる。
言葉の意味そのものより、会話の温度や、相手が何を期待しているのかを読む方が面倒だった。英語の方が楽だった。読んでいる間は、誰かに何かを答えなくていい。
ページをめくっていると、机の前に影が止まった。
政輝は顔を上げた。
光出だった。
黒い髪。
静かな目。
給食の時にティッシュをくれた子。
絵をなくした男子の周りにできた嫌な空気を、何でもない顔で変えた子。
最近、妙に目に入る子。
「なに読んでるの」
政輝は本に視線を戻した。
「本」
「それは見ればわかる」
光出が少し笑った。
怒ったわけでも、からかったわけでもない。普通に、少しだけおかしそうに笑った。
政輝は一拍置いて、ページを指で押さえた。
「英語」
「英語?」
「うん」
「面白い?」
「普通」
「ふうん」
それで終わりだと思った。
光出は立ち去らなかった。
教室の中では、誰かがサッカーをしようと叫んでいる。別の誰かが、先生に怒られるよ、と笑っている。その騒がしさの中で、光出だけが机の前に静かに立っていた。
少しして、光出が口を開いた。
“Is English easier for you?”
(英語のほうが話しやすいの?)
政輝は少し止まった。
発音は完璧ではない。
でも、同じ年の子どもが話す英語としては、かなり自然だった。
政輝は本から目を上げる。
光出は、何かを試すような顔をしていなかった。
珍しいものを見つけて騒いでいるわけでもない。ただ、聞いてみた、という顔だった。
“Yeah.”
(まあな)
“Where did you live?”
(どこに住んでたの?)
“England.”
(イングランド)
“Long?”
(長く?)
“Yeah. Most of my life.”
(ああ。ほとんどずっと)
“I want to go there.”
(行ってみたいな)
政輝は眉を少し動かした。
“Why?”
(なんで)
“Sounds interesting.”
(面白そうだから)
光出は普通に言った。
自慢でもない。
相手に合わせている感じでもない。
海外に憧れているというより、知らない場所を想像して、本当に少し面白そうだと思っただけの声だった。
そこが変だった。
この学校の子どもたちは、海外の話をすると、家族旅行や親の仕事や別荘の話をする。あるいは、英語を喋って、と言う。何かを見せてほしがる。
光出は違った。
ただ、行ってみたいと言った。
会話が終わりそうだった。
でも、まだ終わらなかった。
“Do you like it here?”
(ここは好き?)
政輝は少し考えた。
教室を見る。
走っている男子。
笑っている女子。
黒板の端に残った日直の名前。
窓の外に見える校庭。
この学校は、きれいだった。
広くて、古くて、どこも磨かれている。
小学校から大学まで続く一貫校で、子どもたちは小さい頃から同じ校章の中で育つ。誰の親が何をしているか、どこの家と繋がっているか、そういう話が、子どもの会話の端にも少しずつ混ざっていた。
政輝はまだ、その空気が好きではなかった。
“Not really.”
(あんまり)
本当のことだった。
別に好きじゃない。
光出は少しだけ首を傾けた。
“Too loud?”
(うるさすぎる?)
少し笑っていた。
“Maybe.”
(かもね)
“Yeah.”
(だね)
光出は小さく頷いて、日本語で続けた。
「わかる」
英語と日本語が混ざった。
少し変だった。
でも、不思議と変には聞こえなかった。
政輝は本を閉じかけて、やめた。
なんとなく、言った。
“You sound like an elementary school kid.”
(小学生みたいな英語だな)
少し意地悪だと分かっていた。
光出の英語は、同級生の中ではかなりできる方だった。先生に褒められてもおかしくない。
でも、なんとなく言った。
反応を見たかったのかもしれない。
光出は少し止まった。
考えるように瞬きをする。
それから、普通に笑った。
「小学生だよ。家で講師の先生に教わってる最中なんだ」
嫌そうではなかった。
見栄もない。
張り合う感じもない。
ただ、その通りだと思っている顔だった。
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