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第一章 高等部 4話 はじめて会った日8

小学三年、六月。 昼休みの終わりだった。 教室には、まだ外から戻ってきた子どもたちの熱が残っていた。窓は開いていて、ぬるい風がカーテンを少しだけ揺らしている。誰かが廊下で笑っていた。誰かが机の間を走り、別の誰かが「先生来るよ」と言った。 政輝は、窓側の一番後ろの席で本を読んでいた。 英語の本だった。 日本語の本も読める。読めるが、まだ少し疲れる。英語なら、文字を追うだけでいい。誰かの顔色も、話に入るタイミングも、余計な間も考えなくて済む。 今日の昼休みは外に出なかった。 面倒だったから。 昼休みが始まった時、光出が友達二人と教室を出ていくのは目に入っていた。 「涼、外行こ」 「うん」 そんな短いやり取りだったと思う。 光出は特別急ぐでもなく、笑って教室を出ていった。黒い髪が、廊下の光の中で一瞬だけ揺れた。 それだけだった。 政輝は本へ視線を戻した。 ページをめくる。 教室はうるさい。 でも、まあいい。 そう思っていた時だった。 「……ない」 小さな声がした。 政輝は顔を上げた。 教室の前の方で、女子が自分の鞄を開けていた。中身を机の上に出して、ポケットを探り、もう一度鞄の底を覗き込んでいる。 周りに友達が集まり始めた。 「どうしたの」 「キーホルダー。ない」 「あのウサギのやつ?」 「うん」 女子の声が少し震えていた。 そのキーホルダーを、政輝も見たことがあった。 白いウサギの小さな飾り。 たしか、家族で出かけた時に買ったものだと、前に誰かに話していた。政輝は興味がなかったから、その時も聞き流していた。 けれど、その女子が明らかに焦っていることは分かった。 「さっきまであったの」 「ちゃんとここにつけてた」 「昼休み前?」 「うん、見た」 教室の空気が少しずつ変わっていく。 ただの「なくした」から、「誰か知らない?」へ。 「最後に見たのいつ?」 「昼休み前」 「昼休み、誰が教室いた?」 誰かが言った。 その一言で、空気が一段変わった。 政輝は本を閉じた。 面倒だと思った。 女子が少し考える。 それから、こちらを見た。 「……久遠くん」 教室が一瞬だけ止まった。 別の男子が言った。 「俺、途中から外いた」 「俺も」 「私も」 「給食のあと、すぐ校庭行った」 声が続いた。 少しずつ、見えない線が引かれていく。 教室にいた人間。 いなかった人間。 その線の向こうに、政輝が一人残っていく。 「久遠、ずっといたよね」 誰かが言った。 政輝は本の表紙に指を置いたまま、短く答えた。 「知らない」 「いや、盗ったとかじゃなくて」 誰かが慌てたように言う。 でも、同じだった。 言い方が違うだけで、空気はもうそちらへ向かっている。 政輝はこういう空気を知っていた。 少し違うやつ。 少し浮いているやつ。 まだみんなの輪の中に入りきっていないやつ。 そこに理由が集まってくる。 理由なんて、後からいくらでも作られる。 「久遠くん、見なかった?」 女子が聞いた。 責めている顔ではなかった。 むしろ、困っている顔だった。泣きそうで、どうしたらいいか分からなくて、誰かに何かを言ってほしい顔。 でも、その顔がまた面倒だった。 「見てない。本読んでた」 「ずっと?」 「うん」 静かになった。 誰かが何かを言いかける。 その時だった。 「僕もいたよ」 声がした。 政輝はそちらを見た。 光出だった。 教室の前の方に立っている。いつの間に戻ってきたのか分からなかった。額に少しだけ汗をかいていて、外から戻ってきたばかりなのが分かる。 それなのに、涼は静かな顔をしていた。 「僕も教室いた」 政輝は目を細めた。 嘘だった。 昼休みの始まりに、友達と一緒に教室を出ていくところを見ている。 政輝だけが、それを知っていた。

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