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第一章 高等部 5話 校舎裏3
校舎裏は、昼休みでも人が少なかった。
古い校舎の影になっていて、雨上がりの土の匂いが残っている。遠くから校庭の声が聞こえるが、ここだけは少し音が薄い。
政輝は壁にもたれて待っていた。
購買の袋を片手に下げている。
涼が来る。
廊下にいた時の柔らかい顔は、もう半分消えていた。
「何だ」
「飯」
政輝は袋を投げた。
涼は受け取る。
中を見る。
「頼んでない」
「食ってねぇだろ」
「後で食べる」
「いつ」
「……放課後」
「昼飯じゃねぇ」
涼は少しだけ不満そうに政輝を見る。
外では絶対に出さない顔だった。
「忙しかった」
「知ってる」
「なら分かるだろ」
「分かるから買った」
政輝は自分のパンを開けた。
涼は袋の中を見たまま、少し黙る。
「お前、こういうところだけ真面目だな」
「飯は要るだろ」
「授業は?」
「要らねぇ」
「数学も寝てた」
「起きてた」
「知ってる。答えてた」
「だろ」
涼はパンを取り出しながら、軽く息を吐いた。
「腹立つな」
「褒めてんのか」
「違う」
涼は包装を開ける。
甘くないパンだった。
自分が食べやすいものを選ばれていることに気づいたが、そこには触れなかった。
代わりに、さっきの授業の話を続ける。
「最後の問題」
「何」
「起きてたなら答えられるだろ」
「嫌味かよ」
「確認」
政輝は水を飲んだ。
「条件二つあっただろ。片方は代入しなくても消える。だから三分の二」
「そこまでは先生にも言ってた」
「じゃあ聞くな」
「途中式」
政輝は面倒そうに涼を見た。
「二行で終わる。展開したら長い」
涼はパンを一口食べた。
咀嚼して、飲み込む。
「合ってる」
「だろ」
「本当に腹が立つな」
「だから褒めてんのか」
「違う」
涼は淡々とパンを食べている。
「お前も大概だろ」
「ん?」
「どうせほとんどの授業の内容、既に頭ん中入ってんだろ」
「褒めてる?」
「違う」
涼が少し笑った。
湿った校舎裏に、昼休みの遠い声が流れてくる。
表ではほとんど話さない二人が、ここでは普通に言葉を重ねていた。
乱暴で。
短くて。
それでも噛み合っている。
涼は半分ほど食べたところで、ふと手を止めた。
グラウンドの方から、女子たちの声が聞こえた。
高い笑い声。
名前を呼ぶ声。
濡れた土を踏む軽い足音。
なんでもない声だった。
ただの昼休みだった。
涼はそれを聞きながら、もう一口パンを口へ入れた。
瞬間、味が変わった。気がした。
鉄の匂い。
ぬるいものが舌の上に広がる感覚。
血液の味。
飲み込む前に、喉が止まる。
違う。
パンだ。
ただのパン。
さっきまで食べていた。
政輝が買ってきた、甘くないパン。
袋も、匂いも、手触りも、全部分かっている。
それなのに、口の中だけが違った。
涼は動かなかった。
噛めない。
飲み込めない。
出すこともできない。
気持ち悪い。
違う。
そんなことはない。
何も入っていない。
ただのパンだ。
普通にしろ。
涼は目を伏せた。
政輝の前で吐き出すのは嫌だった。
でも飲み込めなかった。
指先が、包装の端を少し強く握る。
それを、政輝が見た。
「涼」
涼は返事をしない。
できなかった。
政輝の声が少し低くなる。
「無理か」
涼は数秒遅れて、小さく頷いた。
喉を動かす。
飲み込めない。
政輝はすぐに水を渡した。
「出せ」
涼の目がわずかに揺れる。
「いいから」
責める声ではなかった。
急かす声でもない。
涼は口元に手を当て、パンを紙に吐き出した。
吐瀉物にも満たない、噛んだ後の残骸。
それでも、ひどく嫌だった。
自分の身体が言うことを聞かないことが。
食べ物を食べ物として扱えないことが。
政輝が見ていることが。
涼は水を少しだけ飲んだ。
口の中に残った感覚は、すぐには消えなかった。
グラウンドからまた笑い声が聞こえる。
涼は肩をわずかに固くした。
政輝は何も聞かなかった。
「残り」
涼が掠れた声で言う。
「食べる」
「無理だろ」
「……」
涼は返せなかった。
政輝は涼の手からパンを取った。
無理やりではない。
指が離れるまで待ってから。
「俺が食う」
涼は顔を上げる。
「お前の分は」
「食った」
「それ、俺の」
「今は俺の」
「理不尽だな」
声は戻りきっていなかったが、少しだけいつもの調子に近づいた。
政輝は何も言わず、涼の残したパンを食べた。
普通に。
気にしていないみたいに。
涼が食べられなかったものを、何か特別なものとして扱わないように。
涼はそれを見ていた。
口の中に残る嫌な感覚はまだある。
それでも、政輝が普通に食べているのを見ると、ほんの少しだけ現実が戻った。
これはパンだ。
ただのパンだ。
政輝が食べている。
何も起きていない。
涼は水をもう一口飲んだ。
「悪い」
「何が」
「買ってくれたのに、食べられなかった」
「半分食った」
「全部じゃない」
「昼飯としては進歩だろ」
「基準が低いな」
「お前用だからな」
涼は少しだけ目を伏せた。
責められなかったことで、余計に何かが詰まる。
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