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第一章 高等部 7話 嫉妬4
「…お前は」
こぼれ落ちるみたいに涼が言う。
「お前は、戻ろうと思えば普通に戻れるだろ」
涼の煙草を持つ指に力が入っている。
「俺のそばにいる必要はない」
そのまま煙草に皺が寄るのを、政輝は見ていた。
「俺は」
「涼」
政輝は自分の煙草をしまった。
「ここにいる」
短く言った。
涼は目だけを向ける。
「普通とか、いらねぇ」
そのまま、政輝は涼の煙草を涼の指から抜いた。
「昔から、欲しいもんなんか一つだけだ」
そして、皺の入った涼の煙草を吸う。
「涼」
涼は何も言わなかった。
でも、肩の力がほんの少し抜けた。
政輝はそれを見逃さなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
政輝は隣で立っている。
遠くでは、まだ文化祭準備の音がしている。誰かの笑い声、机を動かす音、教師の注意する声。
その全部が、この場所までは、薄くしか届かない。
政輝は煙草を消した。
携帯灰皿の蓋を閉める。
涼はそれを横目に見る。
それから、ほんの少しだけ政輝の方へ身体を傾けた。
肩が触れる。
最初はそれだけだった。
政輝は動かなかった。
涼はさらに少し、体重を預けた。
頭ではなく、肩。
疲れている子どもが、壁ではなく人を選んだような寄り方だった。
政輝は涼の方を見る。
涼の顔は見えない。
黒い髪の端だけが、制服の肩に触れている。
ふ、と政輝が息を吐く。
「あったけぇ」
「うるさい」
「普通だ」
「体温たけぇ」
「じゃ、俺が低い」
「ん」
涼はそのまま動かない。
政輝はそれを見て口元が和らぐ。
涼はこんなこと、普段外では絶対にしない。
廊下でも、教室でも、生徒会室でも。
けれど裏では、こういうことがある。
涼が少しだけ崩れて、政輝の方へ寄る。
政輝はそれを大げさに受け止めない。
ただ、そこにいる。
「戻るのか」
政輝が聞く。
「戻る」
「まだ?」
「もう少し」
「じゃあいろ」
「偉そうだな」
「お願い」
「おねだりが下手だな」
息を吐きながら言う涼の声に、少しだけいつもの温度が戻っていた。
政輝はそれで十分だった。
夕方の風が校舎裏を抜ける。
涼の煙草の匂いが薄くなる。
しばらくして、涼は肩を離した。
何事もなかったように制服の襟を直す。
髪を整える。
外へ戻る準備を始める。
政輝はそれを見る。
「会長様は忙しいな」
「素行不良者よりはな」
「犬は待ってりゃいい?」
涼は一瞬だけ考えるような顔をした。
それから、少しだけ口元を緩める。
「おすわり」
「はいはい」
政輝は壁にもたれたまま、動かなかった。
涼は校舎の方へ歩き出す。
途中で一度だけ振り返る。
もう顔は、いつもの光出涼に戻っていた。
「戻らないのか」
「おすわりって言っただろ」
「犬だな」
「今さらだろ」
涼はほんの少し笑った。
「いい子」
政輝の髪を緩く撫でる。
政輝は拒否することなく、その指先を見た。
白くて細い、見た目とは裏腹な温かな手。
涼の手はいつも冷たい。
それは常に緊張の中にいて、気を張っているからだ。
でもこうして政輝といる時は温かくなることを、政輝はもう知っている。
涼の手を取って、手の甲を伝って指を絡ませる。
涼は薄く微笑みながら、満足そうに見つめた。
その整った顔から漏れる色気に、おそらく本人は気付いていない。
政輝は、目を細める。
こういう顔をするから、離れられない。
好きだ、と思う。
もうずっと前から思っている。
けれども、一度も口にすることはない。
これまでも、これからも。
涼が離れる。
そしてそのまま、校舎の方に戻っていく。
しばらくして、後ろからいつもの柔らかい声が聞こえてきた。
切り替えた後の涼は早い。
いつも気まぐれに寄ってくるくせに、離れるのはあいつからだ。
政輝は校舎裏に残ったまま、空を見上げた。
女子たちの笑い声も、男子たちの呼び声も、まだ遠くで聞こえる。
久遠政輝は、常に涼の横にいるわけではない。
それは事実だ。
けれど、涼が裏で一人煙草を吸う時。
一人で膝を抱える時。
一人で崩れる時。
そこへ行くのは自分だ。
政輝はそのことだけを、言葉にしないまま持っていた。
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